相容れぬ存在

自室でシャワーを浴びながら、降谷は目を閉じた。視界を遮れば、音はより鮮明に聴こえてくる。水の音はあの日を思い出させる。大切な幼馴染を失った、絶望と憎悪に覆われたあの夜。親友の遺体に付着した血が雨に流されていく様を、呆然と見つめた自分。表情ひとつ変えず銃把から手を離さぬまま、去って行ったあの男の後ろ姿。あれから3年以上が過ぎた。そして降谷は今、男への復讐だけを糧に息をしている。

「全て失った。せめてこの復讐だけは叶えてみせる」

言葉と共に瞼を開けた。赤井やつ以外に障害が一つある。昨日まで小さかった意識は、たった一瞬で膨れ上がった。赤井おとこに首輪を付け使役する女がいる。それも圧力による支配ではない。信頼関係を築き、肩を並べて歩く様は、かつての降谷と諸伏じぶんたちを彷彿とさせる。それがまた降谷を苛つかせた。拳を叩きつけた鏡に映る自分の姿は獣のそれだ。

−−−−−

同じ頃、朱は食堂にいた。目的の人物を探していると千切れんばかりに腕を振るその人を見つける。

「朱ちゃん、こっち!」
「すみませんっ、遅れてしまって」
「全然いいよ、事後処理は終わったの?」
「一応は・・・報告書はまだですけど」
「あー、ごめん。宜野座に書いてもらえばいいのに」
「そんな、無理ですよ!宜野座さん凄く不機嫌で、頼める雰囲気じゃないです。戻って仕上げます」
「狡噛に足に使われたからご機嫌斜めなんだよ。あ、お腹減ったよね。ご飯食べよっか」

子どものような顔を見せる響歌に朱は戸惑う。正直、この先輩の目的を計り兼ねていた。自分に話したい事があるのは確かだろう。その同期である狡噛をドミネーターで撃った手前、誘いを受けた瞬間は説教かとも思ったがそういう雰囲気ではない。そもそも彼女はその場に居合わせていたうえ、朱の選択を肯定していたはず。では、目的は一体なんなのだろう。

「−−ん!朱ちゃん!」
「っ!ご、ごめんなさい。ぼーっとしてて」
「眉間に皺寄ってたよ、考え事?」
「えっと・・・今日はどうして呼ばれたのかと」
「あれ、原因は私か。大した目的があるわけじゃないんだけどね。ただ話がしたかったんだ。狡噛と宜野座のこと、あと私自身のこと」
「響歌さんの?」
「そ。あと、監視官の仕事に対する印象・・・とか」

カレーライスを頬張りながら、響歌が答える。初日に色々やらかし、今まで何一つ疑問を抱かなかったシビュラの正義に対し、少なからず疑いが生まれている。忠実な監視官としてありたいならば、ドミネーターの命令通りに行動すべきだ。つまりシビュラにとって、現時点で朱は優等生でなく劣等生だろう。そして恐らく、目の前の女性は朱の置かれている状況や葛藤を理解しているように見える。

「まあ、そんなに畏まらないでよ。別に取って食いはしないから」

楽しそうに笑いながら肩を2回叩かれた。一層不安が募る。そんな朱を興味深げに真っ黒な目で見つめてくる。髪の毛一本から指先、瞳孔の動きに至るまで全てを記憶されている気がして、朱は身を震わせた。

「じゃあ質問、狡噛や宜野座とは上手くやってる?宜野座には虐められてない?」
「あはは・・・厳しい人だとは思いますけど、何かいつも思い詰めてる感じがします」
「へぇ、よく見てるね。大当たり!」
「響歌さんは何かご存知なんですか?」

ビシッと人差し指を向ける先輩に朱は戸惑う。どこか生き急ぐような様子の宜野座を思い出し、その理由を尋ねた。少しの間見てきただけだが、宜野座は響歌に心を許していると思われる。それと同時に彼女を複雑そうに見ていることがある。確かに目で追ってしまいそうになる魅力がある人物だ。

「知ってるけど、私の口からペラペラ話すつもりはないよ。一番デリケートな部分だからねえ。それに一係で仕事してれば自然と分かると思う」
「そう、なんですか?」
「虐められたら言って、喝入れておくから。まあ今は厳しさが目立って余裕がなく映るかもしれないけど、宜野座の言葉は芯が通ってるから学ぶ事は多いよ。よく気がつくし、頭もいい。真面目だからね・・・ちょっと心配になるくらい」

パクパクと吸い込まれる様にカレーの盛られた皿が綺麗になっていく。ちゃんと噛んでいるのだろうか。口元に付いた米粒を親指で掬う様子は、年不相応だ。

「そういう響歌さんも周りをよく見てますよね」
「そうだね・・・まあ、自分の為だから」
「え、それってどういう意味ですか?」
「私はさ、監視官なんてやってるけど、全国民救いたいとか潜在犯=悪だとか考えてないんだ。自分が守りたいものだけ守れればいい。それが潜在犯・・・シビュラにとって悪だったとしても。例えば、赤井さんと善良な一般市民の上に鉄骨が落ちてきたとしても、私は赤井さんを助ける。何の迷いもなくね」

朱は絶句した。執行官相手ならまだしも監視官、ましてや出会って1週間足らずの自分にそんなことを言っていいのだろうか。そう思う一方で、シビュラの正義が全てではないという考えを隠さず公言できることに、尊敬を覚えた。しかし、自分に話してどうするつもりなのだろう。またも目的が見えない。その考えを共有して欲しいのか、それとも他に真意があるのか分からない。朱が黙ったままなのに気付いているのかいないのか彼女は話し続ける。

「大切なものと、それ以外しかないんだよね。困るのは、さっきの鉄骨の場合で両方とも大切だった時。私にはどちらも救える力はない。どちらかを選択しなくちゃいけなくなった時にどうするかずっと考えてる。今のところ、そんな面倒な場面に遭遇してはいないからいいけど。んで、ここからが今日の論点なんだけど朱ちゃんにも手伝ってほしいんだ」
「手伝うって、具体的に何をすれば・・・」

予期せず明かされた信念に戸惑っている間に、どんどん話が進んで行く。逃げ出したい気持ちと、話し続けたい気持ちが混ざり合う。言い淀む朱とは裏腹に響歌はまた笑った。生憎とこちらは何ひとつ面白くない。

「朱ちゃんは一係の監視官で、執行官を軽視しない。そして狡噛や宜野座、マサさんの近くにいる。私の大切な存在を無駄死だけはさせないで、特に狡噛ね」
「狡噛さん、ですか」
「駒として使うのは立場上アリだと思う。でも、もしもの時は必ずその綱を引いて。彼が人を捨てることのないように・・・最悪の選択だけは、させないで」

最後の一言が冷たく響く。残酷な言葉のはずなのに、どこか温かみも感じる。まるで、狡噛が向かう先が見えているかのようだ。

「難しいお願いですね」
「頭使うのって嫌いなんだ。まどろっこしいのも」
「・・・分かりました。私に出来ることはやります。でも一つ聞かせてください」

この人の狙いは分かった。どうして宜野座ではなく自分に頼んだのかも。『お願いしてもいいか』ではなく『利用するけど構わないか』に近い。悔しいが、響歌にとって宜野座は守りたい側なのだ。比べて自分は出会って間もない後輩にすぎない。大切なものと、そうでないもの。彼女にとって朱は後者だ。朱を利用して大切なものを守る。大切なら自分で守るべきだという反論は重々承知なのだろう。しかし、ここ数日で垣間見た朱の性格、そして一係の監視官という立場。これらを勘定すれば、利用しない手はないと考えた。とても合理的であり、それを隠さない所はいっそ清々しい。残酷で優しい人だ。だからこそ知りたい。何が、この人の信念を形作っているのか。

「響歌さんの信念の根源を教えてください。まさか生まれつきだなんて言わないですよね?」
「はは、それはないよ。そんなのシビュラからしたら文字通り社会不適合者じゃん。そこまでぶっ飛んでないよ。んー、いつから・・・か。話すとロングストーリーだからなぁ。まあ一言で表すとしたら、自分の経験から、かな?同じ轍は踏みたくないんだ」

ごくん、と嚥下の音が鳴る。朱のものだ。明るかった雰囲気が一転、切なげにその瞳が揺れた。同じ轍を踏めば後悔するということだろうか。

「詳しく聞いても?」
「ええ、結局全部話す感じ?一言にした意味ないじゃん・・・分かった、話すよ、話します。『何も聞かずに利用だけさせて』は都合が良すぎるからね」

小さく息を吸うと、彼女は話し出す。淡々と、まるで小説を朗読するように。その信念が出来上がるまでの経緯は、従兄だと言う。彼女は幼い頃に両親を失い、父親の友人に引き取られた。ドイツ性なのは、その人物がドイツ人だったから。従兄とは年に何回か会う機会があり、お互い両親を亡くし兄弟もいなかったことから、仲が良かったらしい。彼女にとって従兄は憧憬の対象であり、家族であり、大切な人だった。

「その従兄が消えたの、5年前にね」
「消えたって・・・」
「行方不明。死体もないし、街頭スキャナーにもヒットしないまま5年も経っちゃった。調べれば分かることだから言うけど、兄さんが行方不明になる直前にこりゃまた変な事件に巻き込まれててさ」
「変な事件、ですか?」

与えられる情報量が多い。朱は必死に脳を回転させ続けた。さらに中断することなく、響歌が話す事件の詳細がまたややこしい。その事件とは、従兄の父方の親戚が次々に亡くなったというものらしい。しかしその従兄は彼女の実父の姉の子で、従兄にとって響歌は母方の親戚だと言う。つまり亡くなった親戚は彼女とは血縁関係のない人ばかり。

「事件当時は他にも人がいたけど、のちに行方不明になっているのは彼だけ。死体は他殺体じゃなかったから事故死として処理された。だから、どうして姿を消したのか分からない。もしも殺人事件だったら兄さんは第一容疑者だから逃げる理由も分かるけど、私も実際捜査に加わってたわけじゃないしね。だから本当に事故死だったのか断言はできない」

響歌の話を聞く限り、朱も同意見だ。ただ事件の関係者なだけであれば、姿を消す必要がない。もちろん自分の意思でなかったとしたら話は違ってくるが、彼女は従兄が自分の意思で姿を消したと確信しているように見える。

「もし他殺なら兄さんが犯人の可能性が高い。あの人なら、事故死に見せかけて人を殺すのは難しくないと思う。あるいは生存している関係者の中に真犯人がいて、兄さんも既に殺されているか。まあこれは可能性としては低いかな。死体が見つかってないし、事件の後であの人が生きていた証拠があるから」
「え、事件の後に誰か接触した人がいるんですか?」
「うん、私」
「ええ!?」

思わずダンッと机を叩きつけて立ち上がってしまう。そんな朱を響歌は無表情で見つめた。大声を出したことで、怪しげな視線がふたりを射抜く。恥ずかしそうに朱が座ると同時に、再び彼女は話し出す。

「直接会ったわけじゃなくて、話をしただけ。私としていた食事の約束が守れないってね。今思えばいつも通りじゃなかった。次の約束をするわけでもなく、あの人言ったんだ−−−『約束、守れなくて悪いな。響歌、人であることをやめるなよ。世界シュビラが何と言おうがお前の音色は美しい。思うままに奏でてみせろ。掻き消してくれ、耳障りなこの音を。早く僕を見つけてくれ、頼む』−−−ほんと、どこの詩人よって感じ」

5年前の会話とは思えないほど正確だ。閉じた瞼の裏には従兄かれがいるのだろうか。彼女が真似た口調からは柔らかい印象を受ける。従妹である響歌も人懐っこいから、二人は似ているのかもしれない。話す内容は穏やかではなく、聞き覚えがある。数分前に聞いたのと同様、シュビラが全てではないという言葉。どうやら揃って日本国民らしさをどこかへ置いてきたらしい。

「次に会ったとき、私は妹のままでいられるのかな。私さ、シビュラがドミネーターを向けた相手が兄さんだったら、引き金に指をかける自信ないんだよね。今まで躊躇したことなんてないくせに」

自嘲するように笑う姿に、朱は何も言えなかった。分かっているのだ、この人は。いつか、守りたい大切な従兄ひとと、この国の正義を天秤にかけなければならない。そして真実を追い求めるほど、そのときはより早くやって来る。分かったうえで追い求めずにはいられない。進まねば、知ることはできない。

「響歌さんは不思議ですね。ずっと話していたくなります。協力します。なので、もしお兄さんのことで進展があったら教えてください。私も見届けたいんです、貴女の選択を」
「選択によっては、敵になるかもしれないよ。でも朱ちゃんと追いかけっこかぁ・・・それもそれで楽しそうかも。よろしくね、正義の味方さん」

差し出された綺麗な手を朱は握る。薄い桃色の唇が曲線を描く。協力者になろうとも、その瞳の奥にある真意は読み取ることができない。引力と斥力の両方が働く相手だなと朱は苦笑する、微笑の裏で響歌が何を考えているかなど知らずに。

「(目的は従兄それだけじゃないけど・・・ただの協力者に全ては話せない。ごめんね、朱ちゃん)」
「あ・・・響歌さん、お迎えみたいです」

思わぬ言葉に伏せていた顔を上げる。誰かが迎えに来る予定などない。朱の視線を追って振り向いて、目を見開く。体ごと背後を向いたため、朱には響歌の表情は見えてはいない。

「本当だ、行かないと。今日はありがとね、また!」

挨拶もそこそこに席を立つと、響歌は背を向ける。その先に佇むのは彼女の部下、赤井秀一。別部署の執行官であることを除いても、朱にとって彼は謎が多い。口数が少ないうえ、近寄り難い雰囲気だ。今も朱に視線を一瞬やったきりで、すぐに逸らされてしまった。しかし、隣に並んだ響歌に対しては饒舌な様子。笑顔は無いが、唇が動いているのが見える。それがどこか無愛想な狡噛ぶかを思い出させて笑った。


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に痺れた!