共に犯す者

「こんなに早く時間を貰えるとは思っていませんでした・・・にしても、よく私の居場所が分かりましたね」
「今日の一件の後、お前が彼女と話しているのが聞こえた。それに彼女は当直だからな、場所を外に指定するのは考えにくい」

赤井は丁寧に理由を述べたが、響歌は小さく笑っただけだった。慣れた足取りで自室に向かう赤井の後を戸惑うことなく付いて行く。二人は決して甘い関係ではないが、第三者が見れば誤解を招きそうな場面である。しかし、両者共に風紀を気にするような性格ではない。

「何か飲むか・・・と言っても、ウイスキーかコーヒーくらいしかないが」
「じゃあコーヒーで。とびきり苦いやつをお願いします。どうにも頭を使い過ぎたようで、眠いんですよ」

広い部屋を見回し、隔離施設とは雲泥の差だなと響歌は思う。人を捨てた人間達の姿を思い出して、小さく溜息を吐いた。彼女が帰国するまで赤井は矯正施設にいたため、この部屋に住み始めてまだひと月も経っていない。そのせいか黒を基調とした部屋の中に物は多くない。積み上げられた本に、灰皿、あとは必要最低限の家具類だけだ。まあ多趣味のようには見えないから、特に驚くこともない。ふと、棚の上にある物を見て響歌は声を上げる。

「うわ・・・私、実物なんて初めて見ました。コンサーティーナですよね、触っても構いませんか?」

頷きながら赤井がマグカップをテーブルに置く。了承を得た本人は棚に駆け寄ると、そっと楽器に触れた。かなり古い物のようだ。文明は進化の一途を辿りホログラム技術を初めとした科学技術で街は埋め尽くされている。そんな社会で楽器は姿を変えずに、遥か昔から人の心を動かしてきた。

「楽器に目がないのは従兄かれの影響か」
「ええ。ヴァイオリンしか弾けませんが、どんな楽器も聴くのは好きです。今度一緒に演奏しましょう」
「執行官を協奏相手に指名するのはお前くらいだ」

皮肉を言いながらも、赤井の頭には奏でたい曲がいくつか浮かぶ。響歌が弾くヴァイオリンは何度か聴いたことがある。誰かに聴かせるために整えられた音色ではなく、どこか荒々しく自分本意な音は演奏者らしいと言うべきか。シビュラという光に見放された赤井じぶんの道標−−−こっちだ、ついて来いと煽ってくる。

「そろそろ座れ、明日も仕事なんだ」

大人しくソファに座ると、赤井の用意したコーヒーを口に含む。苦味が脳を、心を、目覚めさせる。ゆっくりと顔を上げて緑色の瞳と視線を絡ませた。煙草に火を灯すのと同時に赤井が口を開く。

「降谷くんのことだろう?」
「その前に−−−赤井さん、随分変わりましたね」

予期していなかった言葉に、赤井は僅かに表情を硬くした。同時に安堵する、彼女が己が見込んだ通りの怪物にんげんだということに。単純かつ明快な言葉で挑発してくる。"いつから"も"どこが"も言わずとも分かるだろうということか。

「はっきり言えば、弱くなった」

響歌は強い。そこらの男なら相手にならないだろう。しかし赤井は執行官、女性の響歌を制圧するのは容易い。だが彼女は『自分は監視官だから赤井が手を上げるわけはない』などと高を括るような人間ではない。そんな矮小な考え方はしない。ただ無邪気に訊いているのだ。役目を全うしろと、叱責するが如く。

「大倉信夫の事件と、今日の商業施設での一件・・・どうして私の指示を仰いだりしたんですか?執行官なら監視官の命令に従うのは当然だ、なんて言わないでくださいよ。貴方に従順さは求めていません」

指摘されて初めて自覚した。いや、気付かないフリをしていたのかもしれない。弱い部分を隠したがるのは人の性なのだろう。赤井がフッと表情を和らげると、響歌はあからさまに溜息をつく。

「立派な才能を持っているんですから、ちゃんと使ってください。宝の持ち腐れじゃないですか」
「その言葉、そのままお前に返そう」

赤井はよく言うなと喉を鳴らした。しかし彼女の特性上、深く考えれば明確かつ鮮明に記憶に刻まれてしまう。熟考することを嫌うのは、それが理由なのかもしれない。赤井が放った言葉を躱すように響歌は問う。

「私がいない4年・・・いえ、1年と言ったほうがいいですね。赤井さんが矯正施設に戻るまでの1年で、何が貴方を変えたんですか?」

煙草の灰が床に落ちる。7年前に矯正施設を訪ねてきたときと同じ瞳を見つめ返す。第一声は今でも憶えている。『変わった色の瞳ですね』とガラス越しに覗き込まれた。目立つ見た目をしていたわけでも、誰かに似ていたわけでもない。しかし、肌が粟立ったのは確かだ。赤井は一度瞬きをしてから、観念したように話し始める。

「烏の事件で死んだ彼は、降谷くんの友人だった。機密情報を守るための自殺。俺は傍にいながら止めることができなかった。分かるか、響歌。虚無感を拭える場所と、そのための武器を与えられた俺が降谷かれに復讐心を植え付ける結果になった。お前に授けられた力を、正しく行使できなかった」

烏−−−刑事課が追っている謎の組織。日本だけでなく、海外でも犯罪に手を染めていると聞く。亡くなった降谷の友人もまた監視官だったらしい。

「俺よりも、お前の判断で動いた方が死人が少なくて済む。降谷くんも、お前の命令なら従うだろう」
「降谷さんは私の部下です。そして立場上は貴方も。ですが、それ以前に貴方は私の共犯者。自主性を無くされては困ります・・・念書を復唱しますか?」
「いや、必要ない」

牢獄から出され、獲物を追う力を与えられた。その対価はきちんと支払わねばならない。今さら真白い人間になどなれるはずがないのだから、闇の先へと進むのも一興だ。真っ直ぐに自分を射抜く瞳を前に、赤井は笑った。左手を伸ばし、凹凸のない細い首に手を添える。ほんの少し力を込めれば、簡単に折れるだろう。
にも関わらず、逃げる気は微塵もないらしい。ドクドクと脈打つ感覚に何故か安堵した。

−−−少しの自由と狩場をご用意します。その代わり三つ約束してください。守っていただけるのであれば烏の情報も提供しましょう。

7年前、ガラス越しに彼女は言った。熱病に浮かされる心地がした。あの日からずっと侵され続けている。そうだ、刻んだはずだ。目の前にいるのは愛した女でも、宿敵こいびとでも、家族でもない。だがあれからずっと赤井にとって彼女は世界そのもの。

−−−しっかり脳に焼き付けてください、思い出す必要すらないように。一、私を生かすこと。二、全てを共有すること。最後に三、死なないこと。

提示された条件に狼狽えた。潜在犯の自分にとって利得しかない。社会的には相容れない自分と利害関係を築こうとしている時点で普通ではないが、あのとき静かに何かが動き出した。坂を転がるように速度を上げて闇に向かう彼女を見てきた。そして、これからも。

「まさに一蓮托生、だな」
「ええ、楽しみましょう。貴方の罪は私の罪です。全てを共有する約束でしょう?」

赤井が、触れたままだった響歌の首元から手を放す。次いで握手を交わした。7年越しの再契約と言ったところだろうか。コーヒーを一口飲んで、赤井は重い口を開く。

「俺と彼の因縁を知らずとも、お前に矛が向くのは必然。俺を仕留めるうえで、お前は障害になるからな」

咎を共有したところで、降谷の憎悪の対象が彼女になることはないだろう。しかし、赤井を消すうえで間違いなく邪魔になる存在として認識しているのは確か。復讐を遂げるためなら、彼は響歌を殺す。

「それは光栄ですね。でもあの人、人間こっち側ですよ」
「確かにお前なら懐柔できるかもしれん。そうなると俺はお役御免だな」

赤井が参ったとでも言うように両手を挙げて見せる。そう。響歌の言う人か魚か問題においては、降谷は間違いなく前者。それでも分かり合うのは難しい。どんなに歩み寄ろうとも、良くて友人。背中を預け合う景色は見えない。

「その、彼の友人が亡くなったときの状況を詳しく教えてください。どうして、どのように死んだのか」
「それを俺に語らせるとは流石だな。これでもかなり罪悪感を感じているんだがな」

赤井が苦笑しても、慰めの言葉一つ贈ることもない。響歌は黙って翆色を見つめ返す。刑事をやっている人間とは思えない純粋な瞳に、目を逸らしたのは赤井の方だった。どんな凶悪犯と対峙するよりも、彼女と向かい合う方が恐ろしい。

「名前は諸伏景光。俺と彼は1年間、烏に潜入していた。そこで得た情報を公安局へ渡す前日、素性がバレてしまった。彼は俺に媒体の死守を命じ、俺はそれに従った。彼は足を負傷していたから、俺を行かせた方が確実だと判断したのだろう」
「そして、戻ったら彼は自決していたわけですね」

響歌が繋げた言葉に、赤井は頷いた。自分の口から情報が漏れる前に彼は自ら命を絶ったのだろう。潜入捜査は命懸け。成功すれば得られるものは大きい、同時に失敗したときの損害も。公安局の情報など喉から手が出るほどほしいに決まっている。あらゆる手段を用いて吐かせようとするだろう。科学技術の発展が齎したのは恩恵だけではない。刑事ですら薬を投与したり通電させたりするのだから、犯罪組織なら躊躇わず使用するに違いない。

「正義感と責任感の塊ですね、その人。私には無理です。尊敬はしますが、理解はできません」
「俺がいる限り、お前にそんな選択はさせないさ」
「どんな苦境に陥っても、私が自死を選ぶことはないですよ。でも、それでどうして降谷さんが赤井さんを憎むんです?諸伏監視官の指示通りに行動したのに」

予想通りの指摘に赤井は内心溜息を吐いた。短い間で降谷が逆恨みするような人間でないことを本能的に分かっている。伝えられなかった残酷な真実を、本人より先に彼女に話すことに赤井の胸がまた軋む。

「すまない、少しばかり嘘を混ぜた・・・引き金を引かせたのは俺だ。俺の油断が、招いた結果だ」
「赤井さん、私を甘く見過ぎですよ。貴方が理由もなく油断なんてするはずありません。私に隠そうとしたところを見るに・・・それは、あまりに哀しいですね」

赤井は驚く。響歌が他人に同情している。だがその表情も瞬きをする間に幻のように消えた。それにしても、相変わらず舌を巻く。全てを言葉にする必要がないのは有難いが、隠し事まで見透かされそうだ。

「さすがに頭の回転が速いな」
「それは特に関係ありませんよ。立場を置き換えて考えただけです。誰かを憎まずにはいられないほど大切な・・・例えば従兄あにや貴方が、潜入先で身動きが取れなくなっていたら真っ先に助けにいきますから。結果その人の命を摘むことになれば、私でも犯罪係数が上昇するかもしれません」
「ホー・・・それはまた、熱烈な殺し文句だな」

赤井は悟られない程度に目を伏せた。全てを共有しているため、彼女の過去や監視官をしている目的も赤井は知っている。もちろん、中心にその従兄がいることも。だが決して彼と赤井は同等ではない。彼女と赤井の間に愛情は皆無、全てが終われば用済み。分かり切っているはずの終末に胸が痛むようになったのはいつからか。響歌・ルートヴィヒという人間に少なからず魅せられている証拠だ。

「やっぱり赤井さんは優しいですね」

眩しげに自分を見る響歌を、赤井は怪訝そうに見返した。決して人相がいいとは言えないし、執行官にその形容詞はないだろうと思う。それに優しさなどではない。これは、あのとき救えなかった諸伏かれへの贖罪。残された降谷かたわれが迷いなく赤井を憎むための罪滅ぼし。偽善と言ってもいい。

「買い被りだ」
「いくら器用だからって、背負い過ぎなんですよ。まあ心配はしていませんが、約束はきちんと守ってください。私も可能な限り注視しますけど、なにせ苦手なタイプなので仲良くするのはとても無理かと・・・」
「響歌、言葉は正しく使え。"不可能"ではないだろう、懐柔の能否はお前次第だ。それは悪癖だぞ。不得手な仕事も無難にこなすせいで目立たないがな」

スーッと響歌は視線を逸らす。まるで子どもの様な反応に、赤井は笑いを噛み殺そうと努めた。20代後半とは思えない逃れ方だ。頭が良く、行動力もあり、戦闘力も高い。そんな彼女の欠点を挙げるとすれば、苦手な事柄を避けがちな点だ。ただそれは、殆どの人間がそうだ。もしもその欠点を克服したとしたら、

「脅威だな」

ククッと赤井が笑うのを、響歌は不思議そうに見つめた。彼は誰にでも笑顔を振り撒いたりしないが、決して無愛想というわけではない。響歌に対してはセンスのない冗談を言ったり、揶揄うこともしばしば。根っこの部分はフランクなのかもしれない。釣られるように響歌も喉を鳴らして笑った。

「欠点を改善することで少しでも近道できるならいいんですけどね。そう簡単に達成できるなら苦労はしませんよ。それに、イージーモードなんて退屈過ぎて欠伸が出ます。何事も楽しんでなんぼですから」
「フッ・・・お前の隣は飽きないな」

己の欠点は不利ハンデ。パーフェクトゲームは味気ない。あの日、足枷の代わりに付けられた手錠は、猟犬の右手と主人の左手を結んでいる。手綱を握っているのは必ずしも主ではない。猟犬が主導権を握らねばならない時もある。一方が堕ちれば、もう一人も奈落へと消える。紫煙をくゆらせながら猟犬は牙を研ぎ始めた。

「(堕とさせはしない、存分に享楽させてもらうさ)」

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に痺れた!