戦いが始まる予感

肩まで湯船に浸かって目を閉じる。そうして頭に浮かぶのは今も昔もたった一人だけ。あんなに焦った顔を見たのは初めてだ。今思えばあの靴の所為−−−あれは要に贈ってもらったパンプス。玄関でそれを見て駆け出す姿はあまりに要らしくなくて笑ってしまう。いつも余裕で、私一人が空回りすることの方が断然多かったから、してやったりという気分になった。

「あんな風に抱きしめるなんて、余計に消せなくなるじゃない・・・」

膝を抱えて呟く。自分を許せないなんて言っておいて抱きしめ返しそうになった。豆腐並みの決意で、もはや笑えない。しかも弟達の前であんな醜態を晒すなんて、今度どんな顔して会えばいいのか。祈織に至っては話すらできていない。風斗と光がいなかっただけマシかもしれないけれど。

「結局、恋心あんたはどうしたいわけ」

自問が虚しく響いた。2年前も同じ問いかけをして、答えを出せないまま『さよなら』を言った。手元に残った欠片を胸の奥底へと追いやって。己に甘い自分が嫌い、それを認めないで被害者面をする自分はもっと嫌いだ。

「こんなに悩むなんて初めてかも・・・らしくないな」

駄目だ。このまま悩んでいても答えは出そうにない−−−いや、心は決まっている。ただ、踏ん切りがつかないだけ。誰でもいいから背中を押してほしい。祈るような気持ちで立ち上がった。髪の毛が生乾きなのも構わずにリビングに急ぐ。

「おー、さっきぶり!」
「ねえ、間に合うと思う?」

椿の挨拶を聞き流して、問うた。「無視するな!」と騒ぐ椿の横で梓が笑って、向かいの棗が息を吐く。父さんが傍まで来て、頭をぐらぐらと揺さぶられた。たぶん撫でているつもり。

「俺の目が黒いうちに孫の顔を拝ませろ」
「いや、気が早い!」

思わず叫んで、決めた。まだ間に合うなら、全力で迎えに行こう。首を洗って待ってろと恋心あいぼうに向かって宣戦布告をした。

「あ、そーいえば!」

棗の横に座って、一息つく間もなく椿が声を上げる。私を含む4人が一斉に顔を向けると、さきいかを頬張りながら話し出した。

「珍しく祈織がめちゃくちゃ怒ってた!」
「え、どうしよう・・・久しぶりに会ったのに挨拶しなかったからかな」
「いや違うだろ」
「ごめん、嘘。祈織だもんね、ないない」

祈織が怒った−−−それを聞いてサーッと血の気が引いた。2年ぶりに会ったのに笑顔どころか泣き顔で、挨拶すらないとか随分なご身分。混乱する頭が出した結論は一瞬で棗に否定されたけど、自分で言っておいてないなと思った。

滅多なことでは感情を露わにしない子だ。挨拶不履行くらいで怒ったりはしない。同じように笑うことも少ないのが昔から気がかりだったけれど・・・その祈織が怒った、一体何に。

「なに不思議そうな顔してるの、原因は君でしょ」

椿を諭すときみたいな顔で言われる、心外だ。それにたった今、棗が否定したじゃない。自分を指差して梓を見返せば、今度は仕方ないなという顔をされた。

「正確に言えば、原因は名前だけど対象はかな兄。名前を泣かせたと思ったんじゃないかな。祈織に会ったんでしょ、あの顔で」

ぽかん−−−開いた口が塞がらない。え、つまり『姉さんを泣かせるなんて信じられない』ということですか。正直、そこまであの子に想われてるとは考えてなかった。確かに気にかけてはいたけれど構い過ぎていた感は否めないし、私は祈織が一番苦しいときに傍にいてあげられなかったから。

「おい、笑うところじゃないだろ」
「いやマジで怖かったんだからな!当のかな兄も驚いてたし」

とりあえず落ち着こうとして口に含んだワインを吐き出しそうになった。決して笑っているつもりはなかったのに、どうやら顔に出ていたらしい。

「ごめん、なんか嬉しくてつい」
「名前が思ってるより、僕らは心配してるんだよ。祈織だけじゃなくてね」
「今更、他人行儀になられてもな」
「そうそう、遠慮せず椿お兄ちゃんに言いなさい!」

何かに悩んでも椿にだけは絶対相談しないだろうと思いながら、声を上げて笑った。要は特別だけど、大好きな幼馴染は貴方達だけ。

−−−−−

9月24日の早朝、と言っても日は昇っている。今日は早めに出社する予定。その前にサンライズ・レジデンスの入口で人を待っていた。なんだか待ち伏せしているみたいで妙な気分だけど、個人的な連絡先は知らないし、20歳のお祝いなのだから直接言いたい。
そうこうしているとタッタッと軽快な足音が聞こえてきて顔を上げる。目が合って軽く手を振れば、驚いた様子で昴が駆け寄って来た。

「名前姉!どうしたんだ、こんな時間に」
「ごめんね急に。誕生日、過ぎちゃったけど・・・はい、これ」

ラッピングされた包みを渡せば、また驚いた顔をする。実のところプレゼント選びには苦心した。この子はあまり服装に気を遣う方ではない、ほとんど要のお下がりで済ますくらいだし。昴といえばバスケだけど20歳は節目の年なのに、スポーツ用品だけを贈るのは大人としてどうなのかと結構悩んだのだ。結果、バスケをするのに邪魔にならないシンプルなネックレスにリストバンドを添えた。

「ありがとな、大事にする・・・・名前姉は、もう大丈夫なのか?」

思わぬ問いに目を丸くしてしまう、梓の言っていた通りだ、かなり心配をかけたらしい。不器用な昴が言葉にして案じてくれるだけでお姉ちゃんは胸が温かい。

「もう平気だから、心配かけてごめんね」
「いや、別に謝ってほしいわけじゃなくて・・・俺は恋愛とかそういうことには疎いから相談は乗ってやれないけど、何かできることがあれば・・・言ってくれ」

必死に話す様子が微笑ましくてからかってやりたくなる−−−こういう所が椿そっち側なのだろう。ここは素直にお礼を言う。

「ありがとね、昴・・・あ、そういえば妹ができたんだって?どんな子なの?」
「っ、どんなって・・・別に、普通」

おや、と心で呟く。女の子の話題を振って昴が食いついてくるとはまず思っていないけれど、頬を染めるとは何事か。なんだか私の方が面食らってしまい結局会話は続かなかった。引き止めてしまったことを謝って、昴に見送られながら仕事へと向かう。

一緒に住むようになってそこまで経っていないだろうに、やるな妹−−−とか思っている余裕はないことに気づいて立ち止まる。要がその子を好きにらない保証なんてないのだ。決意を固めただけで、胸に居座る想いは未だに伝えられていない。言い様のない焦燥感に囚われて、胸がチクチクと痛んだ。

−−−−−

箱から出したドレスを呆然と見つめる。届けてくれた男はそんな私を眺めて面白そうに笑った。2年で美に一層磨きがかかったようだ、髪も肌も私より気を遣っているように見える。

「なんで私にも?招待客の一人なのに」
「俺の妹なんだから、母さんの娘だろ?」
「その理論なら確かに。後でお礼言わなくちゃ」

丁寧に箱に戻していると、髪を引かれる感覚がした。ドレスの装飾に引っかけたわけじゃなく、光が髪をくるくる弄んでいる。枝毛でもあったのかもしれない。

「2年で随分綺麗になったな」
「は?なに、それ・・・」
「要以外の男ができたわけじゃないだろ」
「あのね、そんな簡単に捨てられたらこんなに苦しんでません。もし綺麗になったと思うなら、それは私の努力の賜物です」
「ははっ!言うようになったな、名前」

椿とは違う、ひょっとするとそれ以上にタチが悪い。おまけに今日は女装じゃないから余計に−−−兄弟の中でも要に顔が似てるんだよな。

「皆には会ったの?」
「いや、それを届けに来ただけ。またすぐに戻る。ああ、そういえば・・・新しい妹には会ったのか?」
「まだ、結婚式が初めてだよ」
「へえ、楽しませてくれるといいんだけど」

面白好きなのはいいけれど、実の兄弟で楽しむのはどうなのか。呆れた顔を向ければ、喉を揺らして笑う。今の私には、観る側に回れるほどの余裕がない。それを口にすれば光のことだ、慰めるどころか面白がるに決まってる。

「ふうん、指咥えて眺めてる暇はないって顔だな」
「っ、分かってる!」

口にしなくたって既にバレている。ムキになって声を荒げてしまって、頬が熱くなった。焦らせて、掻き乱そうとしてる。その手には絶対に乗ってやらない。

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とヒロインの関係が好き