迷うその手を引く

思ったよりもギリギリだ。しかも、こういう日に限って電車が遅延する。待ち合わせの2分前、吉祥寺駅の改札を駆け足で通り抜けた。ああ、やっぱりもう来てる。いつも10分前にはいるもんな。

「要!ごめんね、電車が遅れてて」

私の声にふっと笑って、親指で額を撫でられた。もしかしてゴミでも付いていたのかと、はてなマークを浮かべる。

「汗かいてたから。そんなに急がなくたって、逃げたりしないよ」

別に逃げられるなんて思っていない。冷静に切り返そうとしたら、愛おしそうに見つめるから黙り込むしかなくなった。通りを歩いて他愛ない会話をする。

ふと視線を上げると、前から親子連れがやって来るのが見えた。両親に手を繋がれた5歳くらいの女の子。
可愛いな、と無意識に目で追ってしまう。すると左手に何かが触れる感覚−−−決まってる、要の手だ。

「名前はやっぱり、女の子の方がいいの?」
「な、んの話・・・」

うわ、誤魔化すの下手すぎか。まあ要相手に誤魔化しなんて通用しないけど。そんなことより、こういうとき何て答えればいいの。誰か教えて。

ええ、そりゃあ子どもは欲しいです。だけど、そんな話をしたことないし、そもそもその段階まで至っていない。聞かなかったことにしようとしたけど、無言で答えを待つ要にとうとう観念せざるを得なくなる。

「そんなことないよ、どっちも可愛いし」
「俺似の息子だったら嫌だな、嫉妬しちゃうかも」

ナチュラルに自分が父親なのがズルい。顔がにやけそうになるけど、我に返って立ち止まる。要が振り返って首を傾げた。

「いや、ごめん。要にもそういう願望があるんだなって・・・なんか、驚いちゃった」

呆然とそう言うと、腰に手を回されて自然とまた歩き出す。会話は終わったと思って安心したのに、この男に限ってそんなわけなかった。耳元に顔を近づけられて、いつもより低い声が鼓膜を揺らす。

「君との愛の証だろう?欲しいに決まってる。だから早く愛してるって言ってほしい」

ゾワゾワと耳から全身に震えが走る。え、ここ駅前の通りなんだけど。とても前を向いて歩けなくて俯くと隣で小さく笑う気配がする。胸が苦しくなるけど決して不快じゃない、そんな不思議な息苦しさを感じた。

−−−−−

家のチャイムが鳴って扉を開けると、侑介と絵麻ちゃんが並んで目を輝かせながら立っている。

「えっと、何か御用でしょうか?」
「名前姉、勉強教えてくれ!」
「勉強・・・ああ、そういえば約束してたんだっけ。いいよ、とりあえず入って」

アポなしで来るとは思わなかったが、幸い今日の予定−−街中でショッピング−−は終わっている。椅子に座って紅茶を出す。2人がおずおずと見せたプリントは同じものだ。どうやら学校の課題らしい。手に取ってざっと見てみる。どれもそれほど難問ではない。一応解こうとした痕跡があるけれど、そもそも使う公式が間違っている。なかなか骨が折れそうだな。

「ちょっと聞いてもいい?この分野って覚える公式とか定理が多いけど、どうやって頭に入れてる?」
「そんなの気合に決まってんだろ!」
「私はひたすら書いて覚えてます!」

うわぁ、予想通りの答え。侑介はなんとなく察していたけれど、まさか彼女まで・・・。確かに反復法は英単語や漢字とかには効果があるけれど、理系科目には個人的にオススメしない。まあこれは経験論、つまり私も暗記でどうにかしようとしていた時期があった。

「方法は色々あるけど・・・たぶん、まず覚え方を工夫した方がよさそうだね」
「覚えられれば一緒じゃね?」
「ゆ、侑介くん・・・・」

傍に置いてあったテキストを引き寄せて、該当のページを開く。侑介みたいなタイプには口で言うより見せた方が効果があるからなぁ。白紙の上に図形を描きながら説明を始めた。

「いい?どんな公式や定理にもできあがる根拠があるの。文字列としてインプットするんじゃなくて、この根拠を紐付けて覚えた方が格段に早い」
「えーと、つまり?」
「例えば、この定理は図と絡めて覚える。辺ABは図1ではここ、辺BCはここ・・・・この図に見覚えない?」
「「あ!問2の図!!」」
「ご名答。つまり、問2はこの定理を使って解ける」

見事なハモリで叫ぶと、意気込んでペンを動かし始める。2時間もしないうちにプリントは埋まった。初歩的な問題ばかりだったし、こんなもんだろう。嬉しそうに絵麻ちゃんが声を上げる。

「凄いです!少し覚え方を変えるだけで、こんなにスラスラ解けるなんて・・・あの、試験のときに注意していたことってありますか?」
「そうだなぁ・・・理系科目に限れば、小問は落とさないように注意すること。配点は低いけど塵も積もればなんとやらだし。あとは公式の暗記に不安があるなら試験開始と同時に空いてる所に書いておけば、見ながら解けるしオススメかな」

ふむふむとメモを取る絵麻ちゃん。努力家なんだろうなと微笑ましく眺める。夕方になって2人は何度もお礼を言って帰って行った。嵐が過ぎ去ったように静かになった室内に少し笑ってしまった。

−−−−−

とある金曜日のこと。仕事終わりに父さんと行きつけのラーメン屋で夕食を済ませる。今日はあまりいい日じゃない。まず朝食のトーストを焦がしたし、お気に入りの靴でガムを踏ん付けた。仕事中に飲んだお茶が熱すぎて舌を火傷するわ、紙で指を切るわで災難続き。仕舞いには夕方、携帯の電池が切れた。まあ半分以上は自業自得だけど、こんな日は早く帰って寝てしまうに限る。玄関で靴を脱いでいると、家の電話が鳴った。先に上がった父さんが受話器を取る。

「おい、梓から」
「梓?ちょっと待って……はい」
「ああ、名前。どうして携帯繋がらないの」
「ごめん、夕方から電池切れてて。何か急用?」

珍しく焦っているのが声で分かった。ということは椿関係かな、と予測を立てる。他の兄弟のことなら雅臣兄さんか右京兄さんが連絡をしてくるはずだ。祈織の件で学んで、兄弟全員と連絡先を交換しておいたし。ところが、その予想は外れた。

「彼女、名前の所に行っていたりしないよね?」
「彼女って・・・ああ、絵麻ちゃんか。いないよ、そもそもあの子の連絡先知らないし・・・何かあったの?」
「家に帰っていないんだ」
「その感じだと、理由なくだよね?確かに性格的に有り得ないか・・・皆は?」
「手分けして捜してる、棗にも連絡はした」
「了解、私も捜す。もし見つけたら電話するね」

それにしても・・・・帰れないのか、帰らないのか判断できない。かと言って捜さないわけにいかないし。携帯は電池が切れていたから父さんのを借りて、再び家を出た。どうやら早く寝るのは無理そうだ。

吉祥寺の街中でたった一人を見つけるなんて不可能に近い。ファストフード店やカフェに入っては聞き込みをしてみたけれど、全て空振りに終わる。遅い時間になって人も疎らになってきた街を見回す。見覚えのある二人を見つけて名前を呼んだ。

「昴!侑介!」
「名前姉!!俺、どうしたらいい!?どうして一緒に行かなかったんだ、ぐおっ、

途端に取り乱す侑介の腹を強めに殴る。昴も無言を決め込んではいるけれど、瞳は揺れて焦っているのが見て分かった。こんな状態じゃ、仮に彼女がいても見逃しかねない。右手で侑介の、左手で昴の頬をつねる。

「「いてえ!!」」
「しっかりしなさい!!あの子がどこにいるのか、考えるのは頭脳派の役目。あんた達は違うでしょ!弱気になってる暇があるなら、足を動かせ!!」

こんな風に叱責するなんて滅多にしない。だって叱れるほど立派な人間じゃないもの。だけど、今回ばかりはちゃんと姉として言わせてもらう。私の言葉に目を見開いた弟達が『おう!』と返事をして走り出す。

結局、見つかったという知らせをもらったのは日付が変わってからだった。棗が見つけて保護したらしい。それを聞いたら身体的疲労と安堵感が一気に襲ってきて、家に帰ってすぐにベッドにダイブした。

−−−−−

ブーブーという振動で目を覚ます。時刻は13:37。寝たのが真夜中とはいえ、寝過ぎだ。鳴り止まない携帯を手に取って、相手も確認しないまま電話に出る。

「はい」
「え、名前姉・・・だよな?」
「ああ、昴か。寝起きなの・・・で、また何か事件?」
「どこの刑事だよ。実はアイツが名前姉に会いたいって言ってるんだけど、いいか?」

アイツ、つまり絵麻ちゃん。大方、昨日のことで謝りたいとかそんなところか。まあ今日は土曜だし、休日出勤でもないから時間はある。のそのそと起き上がって返事をした。

「じゃあ私がそっち行くよ。右京兄さんに私の分の夕食もよろしくって伝えて」
「絶対、メシ食いたいだけだろ。分かった、言っておくよ。名前姉・・・・ありがとな」
「何の話?」

笑いながらとぼけて見せる。何に対するお礼なのか分かっていた。だけど、ありがとうが欲しかった訳じゃない。貴方を愛する姉として、至極当然の行いだ。17時、これから行くと昴にメールをしてから家を出た。いつも通り15分後には朝日奈家に着いて、エントランスに入ると目が覚めるような大声で名前を呼ばれた。

「名前ちゃん!!!」
「うわ、驚いた。どうしたの弥、侑介まで」
「ゆーくんの付き添いだよ!」

逆じゃなかろうか、侑介が弥の付き添いでは?意味が分からず侑介を見れば、首に手をやって言いにくそうに口を開いた。

「あー、その昨日の礼を言いたくてよ・・・名前姉のおかげで冷静になれたから」
「・・・どういたしまして。侑介もよく頑張ったね!」
「うお、ちょ、名前姉!やめろって」

両手で頭を撫でまわす。髪と同じくらい顔を真っ赤にして照れている。それに嫉妬した弥が騒ぎ出すまであと5秒。3人でミミレンジャーを歌いながらリビングへ入る。すると、昴に促されるように絵麻ちゃんが私の前に立った。その唇が何か紡ぐ前に、抱きしめて思いを伝える。

「無事で、本当によかった」
「名前さん・・・・ごめんっ、なさい」

堰を切ったように泣きじゃくる妹を叱ることはどうしてもできなかった。そのあとに本人の口から聞かされた"事情"も高校生の女の子が一人で抱えるには重すぎたし。今の私がこの子に伝えられること。それは、

「この家族は皆、貴方のことを想ってる。それは私が保証するし、私も同じように貴方が大切よ。忘れないで、何があっても心は永遠だから」
「はいっ、ありがとうございます」

うーん、確かに可愛い。昴や椿が落ちるのも無理ないなと思いながら、まだ震えている頭をそっと撫でた。

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とヒロインの関係が好き