「祈織!!・・・俺が女として愛してるのは今も昔も名前だけだ。それだけは事実だとはっきり言える」
揺らぐ心を要の言葉が繋ぎ止める。ぎゅっと目を閉じて願った−−−早く終わって。何を信じればいいの。不安がなかったわけじゃない。あの子に会って、あの子と過ごして、嫌になるくらい理解してる。弟達や幼馴染が夢中になるくらい良い子だってこと。要がその輪に入れば、私も途端に当事者になる。でも彼女はもう、私の中では
「それならもっと許せないよ。想う相手がいるのに他の女性、あろうことか妹に手を出すなんて・・・。でも今となっては大目に見るよ。だって、僕は勝ったんだから。要兄さん、自分のものにできると思っていたのにあっさり僕に奪われた気持ちはどう?」
だけどもし要が彼女と結ばれるとして、祝福できるのか−−−否だ。『おめでとう』なんて絶対言えない。それならいっそ祈織が彼女と結ばれれば、なんて考えまで浮かんでくる。つくづく利己的で嫌気がさす。
「でも、負けたのなら素直に負けを認めてほしいな。僕を守るためとか言い繕って、仲を引き裂こうなんてそれはあまりにみっともないと思うんだけど?」
「違う、何を言って・・・・」
決して怒鳴っているわけでも、汚い言葉を使っているわけでもないのに重みがある。まるで氷の剣を突きつけられているみたい。
「じゃあ、キスはしなかったの?しなかったって言えるの?そして・・・もしキスしたのなら、彼女のことを好きじゃないのにしたって言うの?」
畳みかけるように問い詰める祈織に要は何も答えなかった。その表情は見えないから分からないけれど、たぶん何も言えなかったのだと思う。
「もういいよね。今日のことは僕も忘れるから。でも、また妨害したら、そのときはどうなっても知らないよ・・・・いい?」
祈織が去って暫くして、要の足音も遠ざかる。頭の整理がつかない。手を少し伸ばせば届く距離にあった恋心が泡のように消えていく。結びかけていた糸は切れてしまった。私には繋ぎ止める術がない。声を上げて泣ければいいのに、涙は出てきてくれなかった。
「そもそも初めから繋がってないか・・・だって私、要に何ひとつ伝えてないじゃない」
そう、責める資格などない。あの日から要は私の恋人じゃなくなった。別れてから今まで要がどこで誰と何をしようが、それを私が咎めるのはおかしい。簡単なことだ、理論立てて考えるのは得意なはずなのに、
「苦しい・・・・っ、本当何してるんだろう。祭りなんて来なきゃよかったな」
それからどうやって家まで帰ったのか覚えていない。朝6時に目が覚めて、携帯を見たら雅臣兄さんからメールが来ていた。連絡もなしに帰ってしまったから、文面から心配が伝わってくる。当たり障りのない返事を送ってから台所に立つ。朝食を作る間も考えるのは要のこと。
「(キス・・・・したんだ、絵麻ちゃんと)」
自分の唇をなぞってみる。それだけで、その感覚を容易く思い出せるくらい何度もキスをした。でも、全部偽物かもしれない。昨日聞いた会話が脳内を反響するせいで、頭痛がしてくる。
「おい、日曜の朝からそんなもの食わせるつもりか」
「え・・・・あっ!」
声をかけられて慌ててフライパンを見れば、黒焦げの卵が鎮座している。卵すら焼けないなんて、情けなさすぎる。大きな溜息が背後から聞こえた。
「貸せ、俺がやる。1パック無駄にされたら敵わん」
フライパンを引ったくられて、仕方なく椅子に座る。駄目だ、次に要と会うときに冷静でいられる自信がない。どうすれば・・・会うのをやめる?でもそんなの、意味ない。嫌いになれやしないし、要を諦める選択肢なんて私にはない。
「また要くんと何かあったな?」
「・・・・父さん、普通そっとしておくよね?」
「何言ってる、娘に遠慮する必要あるか?・・・彼以外を選べないなら、死ぬ気で繋ぎ止めろ」
目の前にコーヒーのカップが開かれる。本当、怖いくらいちゃんと見てる。私は一生、父さんには勝てないんだろうな。ミルクが多めのコーヒーを一口飲んで、やっと気づいた。
「そっか、私・・・悔しかったんだ」
要と別れてからの2年間、自分がいかに"他人"だったか思い知った。それはどうしようもないことだけど、これからも要と一緒にいるのなら聞かなかったことにはできない。まず要の口から聞いて、そして私の想いを伝える。それだけだ、何も難しいことなんてない。
とは言ったものの、まず頭と気持ちの整理を完了させなければならない。それには少し時間が必要だったけれど、今まで週に一度会っていたのだから当然メールがくる。最初の2週間は仕事を理由に断った。そして3週目、電話がきた。金曜の仕事帰りのことだ。通りを歩きながら、それが鳴り止むのを待つ。
「っ、要・・・・」
思わず足を止めてしまう。だって目の前に要がいる。何度か見た、真剣な顔で。ああ、馬鹿だな私。仕事なら今までだって忙しかったのに、急にそれを理由にすれば要なら勘づくに決まってる。
「随分早いね。仕事、落ち着いたの?」
責めるような口調じゃないのが余計に怖い。ゆっくり近づいてきて私の前に立った。全然駄目だ。簡単なことだと思ったのに、要を前にすると何も出てこない。
「どうして、電話に出ないの?手に持ってるんだから気づいてないわけじゃないだろ?・・・・名前」
その腕が私に触れようとする。瞬間、頭を駆け巡るのはあの祭りでの記憶−−−祈織の言葉、要の叫び。
はっと我に返ったときにはもう、要の腕を振り払ったあとだった。傷つけた、一番大好きな人を。
「ごめんっ、私・・・・」
「うわ、かな兄が名前のこと虐めてる」
「・・・椿?」
突然、背後から聞こえた声。振り向けば椿が立っている。口調とは裏腹にその顔は真剣だ。スタスタと私の横に来ると、さっと腕を取られた。
「椿。名前は今、俺と話してるんだ」
「だから?そんなの関係ないし。幸せにできるのは、かな兄だけだって信じてたから任せたんだぜ。それなら今のかな兄にはその資格、ないじゃん」
さすが声優、といったところ。でもこれは演技じゃない。私のために怒ってくれてるのだと分かる。でも、悪いのは私だ。傷つけたのは私。なんとか弁解しようとしたのに、言葉が出てこなかった。腕を強く引かれて、歩き出さざるを得ない。咄嗟に振り返ると、要の顔が見たことないくらい寂しそうで泣きたくなった。暫く歩いてから、止まろうとしない椿の腕を引く。
「椿・・・・椿ったら!もう、いいよ。大丈夫だから」
「どこが大丈夫なんだよ?らしくねえな」
「うん、そうだね。分かってるよ、なんとかする」
作り笑いはしなかった。椿は鋭いから、無意味だ。探るように私を見て、小さく『家まで送る』と呟いた。
「ありがとね、心配してくれて」
「スノボのときの礼だから」
「スノボって・・・ははっ!そんなの忘れてたよ」
心配かけてばかりじゃ、いられないよね。椿だって、恋に仕事に忙しいのに。ふと横顔を見ると、私を元気付けたくせに椿の方が暗い顔をしてる。
「梓と、何かあったの?」
「・・・・なんで分かるわけ?」
「椿が悩むなんて、梓か絵麻ちゃんか仕事のどれかしかない。梓以外に対してなら全力でぶつかるでしょ?でもずっと近くにいたせいで梓と何かあったときは、どうすればいいのか分からない、違う?」
つらつら理由を述べれば、苦虫を潰したような顔をされた。どうやら図星らしい。珍しいな、と思った。だって喧嘩をしても、いつもならすぐに仲直りしているはずだ。椿が梓相手にムキになるとしたら仕事か、それとも−−−、
「まさか・・・」
「なんだよ?」
「いや、なんでもない」
確かに"梓と"なのだろうけど、原因は彼女かもしれない。苗場での棗に対する椿の態度。もう後戻りできないくらい夢中なんだ。そして、もしかしたら要もそうなのかもしれない。
「送ってくれてありがとう。今度ご飯でも行こうね」
「なんで何も聞かねえの、梓のこと」
「あれ、聞いてほしかった?だって椿は言いたかったら自分から言うでしょ、私相手なら。適度に他人だもんね。そこは梓とは真逆。梓はたぶん、私には何も明かさない。隠すのが上手いから、そもそも気づかないし。ああでも、結構ボロが出やすい所もあるけどね」
おっと、これは釈然としないときの顔だ。クスッと笑ったら長い溜息をつかれた。
「かな兄のこと、大丈夫なのか?」
「椿に心配されるほど落ちぶれてない」
「マジお前、そういう所だぞ。俺が言うのもなんだけど、名前みたいな女見たことねえ」
「愛故だよ・・・・要のことは、自分でなんとかする。誰かに頼って解決することじゃないから。それにさ、そこまで脆い関係じゃないからね私達」
椿にそう言いながら、自分に言い聞かせた。椿の目元が少しだけ優しくなる。それから『じゃーな』と言いながら去って行く後ろ姿に手を振って、携帯を取り出す。メールの相手はもちろん要だ。
話したいことがあるの。だけど、自分の中で少し整理する時間がほしい。待たせてばかりで本当にごめんなさい。今度は私から連絡する。
P.S. あと、椿のこと怒らないであげて。
送信ボタンを押して家に入る。その日の夕食は父さんお手製のハンバーグ。要と何かあったことは知ってるくせに、あまりにいつも通り。それが逆に胸に沁みて泣きたくなった。