「休日でよかった・・・とりあえず何か食べないとっ、
ベッドから降りた途端ふらつく。咄嗟に机に手を付いてなんとか転ぶことは防げた。今日は父さんが出張で家にはひとりだ。倒れたら誰も気づいてくれない。
朦朧とする意識のまま、お粥を少量食べてから薬を飲んで眠った。どれくらい経ったか、バイブ音で目が覚める。こんなときに誰・・・お、渡りに船。
「棗ナイスタイミング、愛してる」
「お前どうしたんだ、その声・・・」
「風邪引いたの、買い物頼まれてくれない?」
「はあ?和眞さんは?」
「出張」
なんで電話をかけてきたのかは知らないけど、棗なら気軽に頼める。お人好しだから、とは言わないことにする。案の定、溜息をつきつつ了承してくれた。
「それで、何を買えばいいんだ?」
「薬と飲み物・・・あとゼリー」
「お前・・・はあ、分かった。チャイム鳴らすからドアは開けてくれ。動けるのか?」
「朝から寝てたから、なんとか」
電話を切って天井を見つめる。目の奥が痛い。暑い。もしかして心労も重なっていたのかもしれない。チャイムの音で閉じていた瞼を上げる。ふらふらと階段を降りて玄関を開ける。そして、転んだ。地面とキスする前に、訪ねてきた人物−−つまり棗−−に受け止められる。
「な、つめ・・・ありがと。冷たくて気持ち良い・・・」
その胸元に熱で火照った額を擦り付ける。息を飲む声を聞きながら意識は遠のいた。トントンと規則的な振動を感じて目を開ける。どうやら階段を上っているらしい、それも私を横抱きして。片腕で成人女性を抱えるとは、さすが体育会系。ベッドの上に優しく寝かされる。そして、
「ん!?んぅ、なっ・・・」
キスされた。は?意味が分からない。何がどうなってんの。ひどい頭痛の中、必死に考える。重い瞼をうっすら開いたけれど、次の瞬間には驚きで見開くことになった。そんな私など構わずに、舌が縦横無尽に口内を駆け巡る。苦しい。呼吸がままならなくなって、やっと唇が解放された。じゅる、と音を立てて透明な糸が切れる。
「なっちゃんには、いつもあんな態度なの?」
「要っ、なんで・・・」
「電話をするなら俺にしろよ・・・妬けるね。嫉妬で狂いそうだよ。熱に浮かされて辛いだろうけど、ひと月も触れてないんだ。少しくらい、いいだろ?」
獲物を見つけた猛獣みたいな、ギラついた瞳。頭は痛いし、全く思考が追いつかない。返事をする間もなく耳元に息を吹きかけられて、変な声が出た。
「んぁっ、ちょっと!風邪、移る・・・から」
「構わない、いっそ俺に移せばいい。名前がくれるなら全部受け止める」
ざらっとした感覚が耳から首、鎖骨を伝う。舐められているのだという事実だけしか分からない。流れるように服のボタンを解こうとする手を掴む。だって下着も着けてない。
「強情だな、相変わらず。んっ、さすがに熱いな」
ささやかな抵抗を嘲笑うように再び唇を塞がれる。その瞬間思い出す−−−こんな風に、あの子ともキスしたの。嫉妬させてるのはそっちでしょ。要と触れ合って、悲しくて泣きたくなるなんて初めてだ。こんな気持ちのまま流されるのは嫌。じわり、と涙が出てきて視界が潤む。
「っ、名前・・・・泣いてるのか?」
「触ら、ないで!いやっ、こんな・・・っ、
要の瞳が迷うように揺れた。ガンガンと頭の中から叩かれているみたいに鈍痛がする。開きかけた胸元に、ぽたりと何かが落ちた−−−それが汗なのか涙だったのかは分からない。目尻から溢れる水滴を、なぞるように親指で拭われた所で意識が途切れた。
「好きな女ひとり幸せにできなくて、弟を守れるわけないな・・・・名前、ごめん」
完全に熱が下がったのは3日経ってからで、結局何日かは仕事を休む羽目になった。机の上にビニール袋が置いてあったから、お人好しの幼馴染はちゃんと届けてくれたらしい。全く記憶にないけれど。要望通りに冷蔵庫にもゼリーが入っていて笑みが零れる。だけどすぐに熱に浮かされて見た夢のことを思い出して、顔を歪めた。
「欲求不満なのかな」
独り呟いて数日振りに携帯を開く。どこから聞きつけたのか、受信ボックスは兄弟からのメールで埋め尽くされていた。過保護かよ、と突っ込んで一人ずつ返信をする。その途中で着信−−−棗からだった。
「お、やっと出たか。熱は下がったのか?」
「うん、色々ありがとね」
「今更だろ・・・ああ、それで。今日はお前に伝えることがあるんだよ」
買い物の礼を言う前に、話を逸らされた。いつになく真剣な声に身構えてしまう。無言で先を促すと、静かに話し始める。
「実は、梓が倒れてな」
「は?倒れたって・・・なんで、何かの病気?」
「ああ、髄膜炎だと。雅兄の話じゃ暫く入院になるらしい。まだ面会はできないが、OKが出たら見舞いに行こうと思ってな。お前も行くか?」
「もちろん行くに決まってるでしょ。面会できるようになったら連絡してくれる?予定は合わせるから」
1週間後、棗から面会が許可されたと連絡が来た。有休を貰って病院へ。棗は営業先から直接来るらしく、梓の病室で会うことに。受付で病室を確認してから向かう。ノックをすると『どうぞ』と聞き慣れた声。
「名前、来てくれたんだ。風邪引いたって聞いたけど、大丈夫なの?」
まだ本調子じゃないのは見て分かった。棗はもう来ていて椅子に座っている。無言で近寄って、できるだけ優しく抱き着いた。
「人の心配してる場合?」
「そう、だね。ごめん・・・じゃないか、ありがとう」
小さく息を吐いて、お見舞いに買った林檎を剥く。そして、棗にこの前のお礼を言っていなかったのを思い出して口を開いた。
「棗、この前はありがとね。ゼリーも届けてくれたでしょ?美味しく食べさせてもらいました」
「はあ?何言ってんだ、あれを届けたのは俺じゃなくかな兄だ。会わなかったのか?」
「は?」
皿に置こうとした林檎が床に転がった。それを梓と棗が目で追う。なに?つまり、どういうことなの?さすがに要に実家の鍵は渡してない。私が家に上げたに決まってる。それで?その後は?
「うわ、最悪だ」
「ちょっと林檎落ちてるんだけど」
「え、じゃあなに?あれ、夢じゃなかったの!?」
「おい、全く話が見えないんだが。あと声がデカい」
頭を抱えるとは、まさにこの事。夢だと思っていたあの記憶が現実だとすると、だ。あの日、要が私にキスをして(それ以上のこともしようとしていたけれど)、それを私が拒絶したことも全部現実だったわけか。
いや待て待て、あれは私が悪いのか。でも客観的に見れば6:4くらいで私に非があるのかもしれない。ここは第三者に意見を聞くべき。
「って、あれ?棗は?」
「帰ったよ、仕事抜けて来たみたいだから。それで、何があったの?」
いくら幼馴染と言っても、相談していいものか。だって要は梓の兄でもあるわけで、実の兄の恋愛事情なんて聞いてて楽しくないだろうしな。でも、意見を聞くだけならいいか。呆気なく天秤は傾いて、梓に一から八くらいまで話した。
「うん、有罪じゃない?過失は君にある」
「だよね、謝らなきゃ。でもそれだけじゃ解決しないしな・・・ああもう、面倒臭い!悩むと風邪がぶり返しそうだから、とりあえず会う、それから聞きたいこと聞いて、言いたいこと言えばオッケー!」
言葉にしたら、何故かスッキリした。要と彼女のことだって、悩んだから余計なことまで考えてた気がするし。本人に聞きもしないで、決めつけてたのは私か。確かにこれは、6:4どころか10:0かもしれないな。
「本当、変わらないね・・・・僕も君を見習わないと」
「ねえ、梓もあの子のこと好きなの?」
「っ!?なに、言ってるの?」
こんな顔、初めて見たかもしれない。梓は基本、狼狽えたりしない。でも予想外のことには耐性があまりないのかも、なんて20年以上も幼馴染をやってきて今更気づいた。たぶん私の質問に対する答えはYES。
「凄いなぁ。まあ、可愛いしね。それは私も同意」
「・・・・もしかして、椿の気持ちも知ってるの?」
「ああ、それは結構前から。そのせいで、貴方達がぎくしゃくしてることも」
そう言えば、梓は目をぱちくりさせた。今日は珍しい表情のオンパレードだな。ふぅ、と息を吐く。手伝いたいのは山々だけど、自分のことで精一杯。
「念の為に聞くけど、かな兄が彼女に惹かれてるとか思ってないよね?」
今度は私が狼狽える番だった。ばっと目を合わせれば『うわぁ、マジかこいつ』みたいな顔をされた。なんか椿と話してる気分になる。こういう顔を見ると、やっぱり双子なんだなと思う。
「それは絶対ないよ」
ゆっくり、そしてはっきりと梓が言う。でも、梓はたぶん要とあの子がキスしたことなんて知らない。だからそう言えるんだと叫びたくなるのをぐっと堪えた。
「まあ、名前がそういう結論に至ったんだ。そう思わせる程の何かがあるんだろうけど・・・そんなのは今まで君とかな兄が過ごした時間に比べたら、取るに足らないことだよ」
「知らないのに、どうして分かるの?」
「ああ、それこそ簡単なことだよ。幼馴染として、家族として、今まで君達を見てきたうえでの確証」
よく椿が見せる、勝ち誇ったような顔。確かに私の負けだな。なんだか泣きそうになって、下を向いた。素直にお礼を言うのは癪だから、全部解決したら夕食を一度くらいご馳走しよう。
「なにそれ、最強じゃん」