ナマエの前で酒を飲む事はしないし、飲む日は必ず会わない。特別約束をしたわけではなく、これは私が自分に課したルールだ。

今でも、男の無骨な背中の奥にナマエが組み敷かれていたあの光景を明確に思い出せる。フラッシュバックするのは必ず、店に漂う煙草とアルコールが交じった空気を嗅いだ時で。
彼女よりよっぽど、私の方が引き摺っているのかもしれないとさえ思う。

「・・・・・・ナマエ?」

マダムの店に寄り帰路に着くと、見覚えのない靴が玄関に揃えられていた。来客用のスリッパも一組無い。
無意識に彼女の名前を呼んだのは、合鍵を渡しているのが彼女だけだからだ。まあ、今日まで一度も使われた事は無かったが。

「おかえり」
「どうした、珍しいな」

ソファに凭れていつだか私が読みかけのまま放置していた本に目を落とすナマエ。ローテーブルには紅茶が湯気を立てていて、随分快適そうなご様子だ。これじゃあどちらの家だか分からない。
ただ、彼女の口から『おかえりなさい』という言葉を聞くのはなかなか良いものだ。

上着をポールハンガーに掛け、彼女の方へ向けた足をはたと止める。──まずい、今日は酒を飲んでいる。それもかなり強めの。

妙な間を不思議に思ったのか彼女がちらりとこちらを見る。その視線から逃れるようにキッチンへ行き、グラス片手に蛇口を捻る。
大丈夫だ。理性はちゃんと保っているし、意識もはっきりある。悟られなければいいのだ。そう考えながら少しずつ水を呷った。

「何かあった?」
「いや──あまり寝てなくてな、目覚ましがてらシャワーでも浴びて来るかな」
「ふーん・・・あのさ、今日泊まっていい?」
「・・・・は?」

ネクタイを緩めていた手を止め顔を上げると、予想していたしたり顔ではなく、私の様子を確かめるような眼差しが向けられていて背中がヒヤリとする。彼女のその洞察力は、日常に於いても時折発揮される事がある。

「質問変えるね。そっち行ってもいい?」
「・・・君はもう少し相手の立場になって発言した方がいいぞ」
「ロイの立場に?」

そう言って、宙を眺め黙り込んだナマエはやがて手にしていた本を置き、真っ直ぐ私を見つめて歩み寄って来る。

もし、勢いでキスでもして来ようものなら肩を掴んで止めるつもりだった。

彼女は私のルールに気付いていて、それを"気遣い"だと勘違いしているのかと思ったのだ。
こんなの気遣いでもなんでもなく、間違ってもあの男のように、 ナマエを泣かすような人間になってはならないという・・・・否、単に同じ事をして嫌われるのを恐れているだけだ。

そんな女々しさもお見通しだとでも言うのだろうか。伸びてきた細い指は頬を通り越して髪を梳いた。キスしてくるかも、なんて浅はかな考えをしていた自分が馬鹿みたいだ。
見た事も無いほど穏やかな表情をしているナマエが、頭を撫でたままぼそりと呟く。

「誕生日おめでとう」

抱きしめずにはいられなかった。
今すぐどうにかしてやりたい位の本能と理性がせめぎ合う中、彼女の手がポン、ポンとゆったり背中を叩く。

「──また難しく考えてる」

子供を窘めるような口調に少しずつ自分の中の迷いが消えていく。いざ回した腕に力を篭めると、すかさずナマエも抱きしめ返してくれた。
それを合図に、やっと唇を重ねる。首筋に唇を這わせると漏れる甘い吐息に、さっきまで保っていた理性が早くもぐらつく。

「嫌だったら言ってくれ。殴ってもいい。」
「・・・嫌じゃなかったら、どうすればいい?」

『好きって言ってくれ』──なんてクサイ台詞は飲み込んで、腰を引き上げるように抱き寄せて深く深く口付けた。


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