シャワーを浴びに行ったはずのナマエが背後から手を回してきて、思わず食器を洗う手が止まる。というか、気配無さ過ぎだ。
彼女が私を後ろからこんなに可愛く抱き締めてくる理由とは。少し考えて、思い当たるものが悲しい程無いのであくまで平静を装ったまま訊ねる。

「どうした?」
「・・・・甘えてる」

全く媚びない、状況報告みたいなノリで言われたその言葉は、非常に悩ましくて。例えようが無いが、強いて例えるなら野良猫が足にすりついてきて『ニャア』と一鳴きしたような。

背中に彼女の額がコツンと当たる感覚に、今すぐ抱き締め返すか、何も言わずに食器洗いという使命を終えるか、と二つの選択肢が浮かんで来た。俄然、前者だ。前者だが──・・・一筋縄では行かない彼女の事だ。

「・・・・」

蛇口を捻りマグカップや皿の泡を流し始めると、それに気付いたナマエの手が私の腕をするりと伝い伸びてくる。
器用にシャツの袖を捲ると、邪魔するように絡みついてくる指。「こら」と言えば、ふふっと背中に暖かい息がかかる。

彼女の場合、これを打算ではなくただの"じゃれ合い"としてやっているのが罪なのである。いっそ打算でいてくれれば、こんな歯を食いしばって『可愛い』という言葉を噛み殺す苦労も無いのに。

「おい、濡れるって」
「どうせ着替えるんだしいいでしょ」
「待っ!・・・・・・あのなぁ・・・」
「あははは!」

最後のスープ皿を水切りラックに置き、濡れた手を拭ってようやくその愛しい生き物を正面から捕らえると、「あっははは」とそれはもうご機嫌で。こちらまで顔が綻ぶ。

「満足頂けたかな」
「それはこっちの台詞」

機嫌直った?と顔を覗き込んできた彼女を見つめ返し、数分前の自分を回想する。言われて見れば確かに、シャワーを浴びるなどと言いつつしれっと帰るつもりなのではないかとか、悪い方に考え難しい顔をしていたかもしれない。よくもまあ自分でも気付かないようなところを観察しているものだ。

「そうだな、じゃあ・・・一緒に風呂に入ってくれれば大満足だ」
「軽口叩けるくらい元気ならいいや」
「連れないな・・・さっきよりもっと素直に甘えてくれたらどんなに嬉しいか・・・──」

なんてね、と心の中で呟いて、ナマエの顎を掬い長めのキスをする。離れ難くて、身体の力が解けるような多幸感。これが癒しというのだろう。つい魔が差して耳裏を親指で撫でると、隙間から彼女の声が漏れる。

「・・・・・・あっ・・・、ん」
「・・・・・・ナマエ・・・」

やがてどちらともなく唇が離れて、あっけなく腕からすり抜けて行くかと思ったナマエはじっと立ち尽くし斜め下を向いていた。
「ん?」と何か言いたげな彼女を促すようにその目を覗き込むと、ちょっと不服そうに片方の頬を膨らませていて。

「あれでも結構頑張ったんですけど」

なんて言うから、顔面の筋肉がどっかにすっ飛んで、ニヤケが収まらなくなってしまった。だらしない顔を隠すように不貞腐れたナマエを抱き締めると、「ちょっと」といつもと変わらない反応が返ってきて、どこかほっとした。

「君が素直になれるように、協力してやろう」

と、囁くと、「結構です」と言いながらも首に腕を回して抱きかかえられる体勢になるナマエが愛おしくて、また笑みが零れるのだった。


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