気怠い身体を引き摺り込むように家に入ると、ふとリビングのドアから差し込む明かりに目が留まる。消し忘れたか、またはナマエかなと淡い期待を胸にドアを開くと、まず視界に入ったのはソファの上の寝巻き。次に、コンロに置かれた小鍋。どちらも今朝家を出る時には無かったものだ。

「ナマエ?」

一通り部屋を見回しても彼女の姿はなく、ああ、そういえば玄関にも靴は無かったなと今更ながら思い返し鍋の蓋を取る。ふわっと顔を覆った湯気が彼女がついさっきまでここにいた事を物語っている。ちょうど一人か二人前くらいのポトフ。

・・・・・風邪のひとつも隠せないとなると、いよいよ彼女を誤魔化せる術が無いように思えてくる。もしかしたら、今まで上手く隠せていると思っていた気持ちや行動も全部、見透かされていたのではと考えてしまう程だ。今日だって執務室では一切の咳払いもくしゃみも、鼻をかんだりもしていないというのに。

ここには居ない彼女に誘導されるがまま寝巻きを手に取り浴室へ行くと、普段あまり使わない浴槽にきもち熱めのお湯が張られていて。致せり尽くせりだな、と力無く笑うと乾いた咳がコホンとひとつ出た。


「よっ!風邪っぴき、調子はどうだよ?」


あれから二日経ち、軽快な足取りで執務室へと向かっている途中、ポンと肩に手が乗るなりヒューズがとぼけた顔してこちらを覗き込んできた。「なんだピンピンしてンじゃねーか」と何故か面白くなさそうに吐き捨てた後、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

何を言いたいかは想像が着く。例えば、『ナマエに看病してもらったのか』とか。

まあ看病してもらった事に間違いはないが、彼女がいた形跡だけだったのは少々残念だ。

「参ったよ、まさか一日で治らないとは。・・・まだそんな歳では無いと思っていたんだがな」
「なぁに言ってんだかいいオジサンが。自覚は早い方がいいぞ〜?あっそうだ、ちゃんとナマエの事労わっておけよ?」

お前がいない間、大活躍だったらしいからな。というヒューズの言葉にはたと足を止め、踵を返す。こういう時の私の勘は割と当たるのだ。

向かった先は仮眠室。案の定、朝っぱらから使用中の札が返っているのが一部屋だけある。分厚いカーテンが揺れない様ゆっくりと隙間に手を入れ覗き込むと、熟睡中のナマエがすぅすぅと寝息を立てブランケットにくるまっていた。
・・・彼女がここを使うのは最終手段だ。明け方まで書類と睨めっこしていたであろう姿が容易に想像出来る。

付けっぱなしのテーブルライトを消そうと部屋に足を一歩踏み入れると、気配に気づいたナマエが寝返りを打ち、開いているような、開いていないような目でこちらを見ていた。その目蓋を再び閉ざすように額を柔らかく撫でると、気持ちよさそうに息を吐くナマエ。なんていうか、猫だ。

「まだ寝てろ」
「・・・・・・あっ、熱は?」

さっきまでの爆睡はどこへやら、まるで今まで起きていたみたいにハッキリした声でそう言うと、私の顔目掛けて伸ばされる手。身を屈めると前髪越しに軽く触れる手の平は、心地よい温度をしていた。

「ん、完治」
「おかげさまでな」

その手を掴みブランケットの中に戻すと、ナマエが小さく欠伸を漏らした。その愛しい百面相を見詰めながら、出来るだけ穏やかな声音で呟く。

「また君の手料理を食べさせてくれよ。出来れば、体調が万全なときに」

「・・・まあ・・・、いつか、ね・・・・・・」

本音なのか建前なのか。その呼吸が寝息に変わる前に聞こえた言葉にちょっと期待しつつ。テーブルライトを消し、その円い頬に唇を寄せて仮眠室を後にする。そして、ドアの向こうにリボルバーを構えた中尉が居ない事を祈りながら、再び執務室へ向かうのだった。


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