※本作はフィクションです。増水した川には近づかないでください。

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 六月十四日は、大瀬の誕生日である。
 なまえがその話を聞いたのは、およそ二週間前のこと。そしてそのとき、なぜか大瀬とは喧嘩になった。誕生日を祝いたいなまえと、祝うだなんてとんでもないむしろ呪ってくれと言う大瀬とで、意見が対立したからだ。
 カリスマハウスのリビングの一角で、皆に呆れ顔で見守られながら戦い続ける二人。そしてなまえの一言で、その喧嘩は一応の決着がついた。

 「じゃあ、せめて当日おじゃまさせていただきます。べつに、大瀬さんのためじゃないですから!」
 「う……わ、わかりました。自分のためじゃないなら……。お待ちしております……」

 いいんだ。その場にいた全員が、ひそかにそう思った。


 そして当日の午後。なまえは立ち寄った店の軒先で、難しい顔をしてスマホを見つめていた。
 数日前には梅雨入りが発表され、それからというもの一日中、降ったり止んだりを繰り返している雨。それも今日、家を出るときには小康状態となったため油断していたが、アーケードに守られた商店街を覗き見るうち、いつの間にかまた本降りとなっていた。

 ざあざあと、大粒の雨がアーケードの屋根を激しく打ちつける音。それを聞きつつ、しかも、となまえは手の中の画面をスワイプする。
 どうやら先ほど、この地区一帯に注意報が出されたようだ。少し前まで使われていたところの、避難勧告程度のものだ。ここしばらく降り続いた雨に加えて、現在急速に雨雲が発達しており、町を流れるいちばん大きな川が増水しつつあるらしい。今すぐどうということもないが、安全な場所にとどまり、外出は控えるようにと。

 なまえはきゅっと眉を寄せ、うーんと頭をひねった。どうするべきか。
 右手に提げた買い物袋には、ちょっといい紅茶とコーヒー、それから大瀬が部屋でもつまみやすいよう、個包装のお菓子のセットが入っている。誕生日は祝わないと約束してしまったので大っぴらにはできないが、せめてもの気持ちとして用意した。個人的に受け取ってもらえなければ、皆で食べてもらえばいい。
 飲み物はハウスへの手土産だ。依央利がケーキを焼くとこっそり教えてもらったので、そのお供になればと、つい先ほど購入した。これらを携えて、いざカリスマハウスへと思っていたところなのだが。

 ひとまずアーケードの端まで出て、改めて空を見上げる。確認するまでもなく、雨は降り続いている。傍らの店舗の屋根に設えられた樋の口から、たまった雨水が滝のようにじゃぶじゃぶと流れ落ちる。

 「……まあ、大丈夫かな」

 なんとなしにそう判断してしまったのは、若さ故か。
 なまえは手に引っ掛けていた傘を開き、降り頻る雨の中、そのまま目的地へと向け歩き出した。


 一方、カリスマハウスでは。

 「…………はぁ」

 薄暗い部屋の中、チェアを窓際へと寄せ、そこに座る大瀬は外を眺めやりため息をついた。今朝には少し止んだと思った雨も、一時間ほど前からまた降り出し、いまや窓ガラスに幾筋も水の跡をつける本降りとなっている。

 間断なく屋根が叩きつけられるノイズを聞きながら、大瀬は思う。
 自分の誕生日は、いつもこうだ。
 ちょうど梅雨の時期だからと言ってしまえばそれまでだが、それにしても、自身が生まれた忌み日にはちょうど相応しいこの陰鬱ぶり。笑いも通り越して、ため息の一つも出ようというもの。

 「……それでも、来てくれるのかな」

 つと指を伸ばし、ガラスに流れる雨の筋をなぞった。冷えた感触。
 二週間前のリビングで、唇を尖らせながらも笑う彼女の顔が、雨降る窓の向こうに浮かぶ。

 大瀬はまた一つ息をつき立ち上がった。反動で、チェアがわずかに床を滑る。それには構わず部屋の外へと向かった。
 一人でいるといけなかった。考えてはいけないことまで考えてしまうから。
 ドアノブに手をかけ、大瀬は静かな自室を後にした。

 階段を下りると、リビングのほうから何やら話し合う声が聞こえてきた。それは住人たちのうち誰かのもので間違いないのだが、雑談にしては、どこか緊張した気配が部屋の外にいても伝わってくる。
 どうかしたのだろうか。首を傾げつつ、大瀬は扉を押し開けた。

 「あっ、大瀬さん」

 その音に振り返ったのは依央利だった。傍らにはふみやの姿もある。二人そろって珍しくも些か難しげな顔をし、ダイニングテーブルの脇に佇んでいる。依央利の手には、彼のスマホが握りしめられていた。

 「どうかしましたか……?」

 尋ねつつ、大瀬は二人のほうへ歩み寄った。それに依央利は「ちょっと、これ見てください」と言って大瀬へスマホの画面が見えるよう差し出した。

 「商店街で仲良くしてもらってるおじさんが送ってくれたんですけど」
 「わざわざ送ってくるのウケるよな」
 「笑い事じゃないですって〜。近づかないようメッセージ送っておきましたけど」

 大瀬が覗き込むと、そこには一枚の写真が映し出されていた。どこか見覚えのある、川べりの風景を写したものだった。橋の袂から撮ったのだろうか、画面下端で見切れた欄干の向こうに川面が見える。そこを流れる水は泥を巻き上げ黄土色に濁り、その水位は、想像するに常の様子より大分高くなっている。

 依央利はその川の名前と、この写真が撮られた地点を告げた。大瀬は驚いた。そこは普段あまり家から出ない大瀬でもわかる、このハウス近くの流域だった。
 そして同時に、大瀬は察する。依央利とふみやが、誰を心配し、話し合っていたのかを。

 「なまえさん、たぶんこの橋の近く通ってくるでしょう? 危ないから連絡しておこうと思ったんですけど、電話は出ないし、メッセージも既読つかなくて……」
 「まあ、大丈夫だとは思うけど」

 二人の話す声が、そのとき既に大瀬の耳には遠く聞こえていた。代わりに強く鼓膜を揺らすのは、リビングの屋根を打つ滝のような雨の音。

 来てくれるのかな。そんなことを思っていた数分前までの自分を殺したくなる。
 やはりあんな約束、するべきではなかったのだ。優しい彼女が、御託を並べる自分のためにこねた屁理屈。それを自分は受け入れた。どうしてか。少なからず願ったからだ。今日という日を、彼女と共に過ごしたいと。
 それがどれほど卑しく分不相応な望みか、知っていたはずなのに。

 慣れ親しんだ嫌悪感が、大瀬の足元に忍び寄る。しかしそれを振り切るように、気づけば大瀬は踵を返していた。

 「あっ、大瀬さん?」
 「おお」

 追いかける二人の声。それすら構わずリビングを出て玄関へと向かい、サンダルを引っかけそのまま外へと飛び出した。

 ***

 いよいよ勢いを増す雨の中、なまえはひとり歩いていた。ここに来るまでの間、さすがに誰か人とすれ違うことはほとんどなかった。

 なるべく傘の下からはみ出さぬよう、小幅で少しずつ歩いてきたつもりだが、それでも跳ね返る雨は容赦なくなまえの足元を濡らし、気づけば撥水加工のパンプスの内にもなまぬるい水が染み通っていた。
 失敗したかもしれない。なまえは弱気になるまま、唇をへの字に曲げる。もっとしっかりした雨靴で来るか、でなければ替えの靴下を持ってくるべきだった。これでは人様のお宅へ上がるのに、失礼になりかねない。

 どうしよう、今からでも引き返そうか。ともするとそんな考えも浮かぶが、その度に脳裏を過るのは、俯きがちな彼の仕草。
 なんとか約束を取り付けたとき、気のせいか思ったのだ。ほんの少しだけど、喜んでくれているのではないかと。それは彼を想う自分の脳が見せる、都合のいいまやかしだったかもしれないが。

 なまえは瞬間、足を止め、またすぐに自身を奮い立たせる。
 とにかく訪問して、このお土産だけでも置いて帰ろう。そして運良く顔を合わせることができたなら、一言でも伝えてみよう。今日という日を、自分は確かに楽しみにしていたのだと。

 そのときちょうど、なまえの足は住宅街の外れにかかる橋の上へと差し掛かった。足元へ目を向けていたので、その下を流れる川の水量がまず目に飛び込んできた。

 「わあ、増水してる」

 雨の音でかき消されるのをいいことに、ひとり呟く。
 支流であるその小さな川は、川幅なりに水量を上げ、低く重い音を辺りに響かせながら黄土色の水を押し流していた。
 それを横目に見つつ、なまえはそこだけ気持ち早足で橋の上を通り過ぎた。過ぎたところで、ふう、と一つ息をつく。ここを抜けてもう少し歩けば、目指すカリスマハウスはすぐそこだ。がんばろう。自分へ向けそう言い聞かせ、また一歩踏み出したときだった。

 「……あれ」

 ふと目線を向けた先。川を背にして、まっすぐ続く歩道の向こう。けぶる雨にどれだけ邪魔されようと、見間違えようもない色とシルエットがなまえの目に映った。

 「……大瀬さん!?」

 その人の名を呼び、なまえは慌てて駆け出す。足元で思い切り水が跳ねたが、構わずそちらへ向け走った。
 大瀬は傘を差していなかった。この土砂降りの中、どういうわけか着の身着のまま、ずぶ濡れになって足早にこちらへ向かってくる。

 やがて二人の距離は、手を伸ばせば届くところにまで近づいた。お互いゆっくりと歩調を落とし、向かい合って立ち尽くす。

 「大瀬さん、どうしたんですか? 何で、傘も差さずに……」

 声をかけつつ、なまえは大瀬へ向け、自ら持っていた傘を差し出した。少しでも、彼の身を雨から遮ろうとしてのことだった。
 しかしその手を、ふいに伸ばされた大瀬の手が掴んだ。

 「えっ」

 そう声を上げる間もなく、そのまま引き寄せられる。

 気づけば、なまえの身体は大瀬の腕の中に収まっていた。握ることを忘れた手元から柄がすり抜け、傘は水浸しのアスファルトの上を一度跳ねて静止した。

 ばらばらと、雨が二人の身を直に打つ。先ほどまで傘に守られていたなまえの身も、一瞬にしてずぶ濡れになる。
 しかしそんなこと、そのときのなまえの意識にはまるで入ってこなかった。
 ただ温かだった。自分の身を包む大瀬の腕が、距離をなくし寄り添う身体が。背を戒める力は思いのほか強く、身長差から大瀬の肩口に口元が埋まる。
 息が、胸が、苦しかった。それでもなまえは、そこから逃げ出そうとは思わなかった。

 顔の見えない彼へ向け、ようやく、囁くように声をかける。

 「……大瀬さ、」

 その瞬間、大瀬は勢いつけて自分をなまえの身から引き剥がした。
 反動で揺れる、なまえの視界。肩に触れていた手が離れ、その向こうに、目を見開き、唇をわななかせる大瀬の顔が映った。

 「っ、すみませ、」

 雨音にかき消えるほど小さな声で言いさし、大瀬はそのまま足を踏み出そうとする。自分が元来た方向とは反対の、増水を続ける川のほうへと。
 しかしその手を、なまえはすばやく引き留めた。

 「待ってください」
 「ダメです、なまえさん、離してください。このクズは今すぐ死んで、」
 「私のせいですね」

 なまえは言った。その言葉の強く断定的な響きに、なまえ自身少したじろぐ。
 大瀬にしても、それは同じだったようだ。ハッとした様子でなまえを振り返る。しとどに濡れたターコイズの髪が頬に貼りつき、幾筋も雫を垂れ流すさまはまるで泣いているかのようになまえの目に映った。心臓に冷たい棘が刺さり、そのまま引き裂かれる思いがした。

 「来てくれたんですよね。心配して、ここまで」
 「あ……その……」
 「ごめんなさい。私、何も考えてなくて。そのせいで大瀬さんが、こんな」
 「ちっ、違います! ちが……わなくは、ないんですけど、でも……なまえさんのせいじゃありません! 自分が、呼んでしまったから」
 「来たいって言ったのは私です。ぜんぶ私の責任です。なのに……」
 「う……」

 なまえと大瀬は、同時に言葉を詰まらせた。向かい合い、とめどなく雫が流れ込んでくる目を伏せ、なまえの手は大瀬の手を掴んだまま。

 ふと、その手をほんのわずか、大瀬が握り返した。

 「…………もう、危ないことはしないって、約束してください……」

 細い、細い、けれども切なる響きを持った願いの言葉だった。
 なまえは頷く。

 「はい……」


 そうして、二人は傘を拾い上げ歩き出した。無言のうちに、肩を並べ、握り合った手は離さぬまま。

 そのままカリスマハウスに帰ると当然、まず出迎えた依央利がひっくり返った。ふみやは既に準備されていたケーキに手をつけ始めていて、ちょうど帰宅して一部始終を聞いた理解に、二人まとめてめちゃくちゃ叱られた。
 笛の音が鳴り響く中、玄関先には雨の日のてるてる坊主のような顔が二つ、しばらくの間しょんぼりと並んでいた。


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