「さんざん手こずらせてくれやがって……で? この後はどーすんだよ。そろそろ腹を括る気になったか?」

……もっとも、今の状況じゃ大人しく降参する以外の取捨選択なんてねぇけど。
恐らく未だかつてないくらいに青褪めてんだろう名前の顔を見下ろしながら、俺はこれから難解繁雑な謎解きに挑むような高揚感に知れず口角を吊り上げた。

──そら、チェックメイトだ。
試行錯誤の末、ようやっとすばしっこい尻尾を掴まえることが出来た。
今の俺はさぞかしコイツからすれば悪魔のような存在に映ってんだろう。けどンなもん知ったこっちゃねえ。これでもかっつーほど俺を避けて、先に引導を渡して煽動させたのはそっちだ。軍配は俺にあがった。ただそれだけのこと。

絶対に秘密を暴いてやると一念発起してから数日。こうして窮地に追い詰めるに至るまで俺がどんなに悪戦苦闘したか。
運動神経とか体力に関しては自惚れなんかじゃなく自信があった、てか男女の力量差ってのもあったから負けるとかあり得ねぇだろと高を括っていた。だからそう身構えなくても手間も掛からず、簡単に捕まえて事を進められんだろとか慢心していた。つまり楽観視してたんだ。
俺の顔を見るなり逃げる行動に出るのは予想の範疇。
たった一つだけ計算外だったのは、アイツは逃げ足が速いってワケじゃねーけど、なんでか並外れに人を撒くのが上手かった。
追随を決して許さず、曲がり角に小せぇ石が転がった砂利道みたいな険路、人が混雑して真っ直ぐに走りにくい場所に駆け込み、ありとあらゆる障害物を駆使しては俺がちょっと目を離した隙に姿を眩ます。

泳ぎ上手は川で死ぬ。
過ちは好む所にある。率直に言っちまえば河童の川流れってワケだ。
まさか俺が得意とする分野で一杯食わされるなんてな。よりにもよって小賢しいたかが一時凌ぎの猿知恵に。
(……上等じゃねぇか)
名前が躍起になって対俺用の策を講じてでもだんまりを決め込む意固地な姿勢は、却って俺の闘争心に火を付けた。
コイツは意地でも隠し通したかったんだろうが、残念だったな。俺は一度興味を持ったことはとことん追及しなきゃ気が済まねぇタチなんだよ。

何より一番ムカつくのは、ただでさえ遠かった距離がさらに広がって、俺らの間に溝みてぇなモンが生まれたこと。
それでなくても潔癖症とか? なんとかで普段から滅多に近付いてらんなくてイラついてたっつーのに、あんな風にあからさまに避けられたらそりゃ鬱憤も溜まるだろ。

「ナメてんの?」

喧嘩腰で俺が言いながらまた一歩間合いを詰めれば、壁際の隅っこで身を竦めてる名前はブンブンと千切れんばかりに首を振った。

「花礫くん……ちょっと冷静に、落ち着こうよ。もう逃げないから!」
「俺の記憶が正しけりゃ、前もそんな嘘吐かして脱走したよなぁ?」
「……い、いや、あれは急に家の用事思い出しちゃっただけでそういうワケでは……」
「見え透いた作り話は良い。……こちとらとっくに我慢の限界超えてんだよ」

この期に及んで逃げ口上を捲し立てる名前に眉を顰め、右往左往に彷徨ってる視線を俺に定めさせるため名前を閉じ込めるように壁に両腕を付いた。
念には念を入れて、片膝も壁につけて周到なまでに退路を断つ。これで懲りもせず逃げようなんざ思わねェよな?
一気に縮まった距離に、名前は案の定息を飲んで恐る恐る俺を見上げてきた。
プルプルと小刻みに震える姿はまるで小動物みてぇだ、なら俺はさながら肉食獣? あながち間違っちゃいねーけど。
……食えるモンなら食ってやろうか。

互いの顔を鼻先スレスレまで近付けて、片手を壁から外し、瑞々しく艶のある名前の唇をそっと撫でる。これ以上無駄な手間は掛けない、手っ取り早く確かめる為にもこの些か強引な手段が最も有効だと思ったからだ。いまいち煮え切らない疑問を確定付ける決め手となれば。
仕舞いにはあわよくば、なんてな。
ほくそ笑みながら唇の端から端、触れるか触れないかのギリギリな間隔で名前の肌をパーツを順になぞっていけば、狼狽えていた名前の震えはまた一際大きくなる。
怖がっているような素振りじゃない、況してや拒否反応というワケでも。目はトロンと熱に浮かされてるかみたいに潤み、手のひらは込み上げる何かを堪えるように硬く握り締められている。
なかなか強情っぱりで一向に守りの体勢を崩そうとしない名前に痺れを切らし、舌を打った俺はあの日も敏感な仕草を見せた耳をやや強く指で擦った。

「〜〜っ、ふッ、あ!」
「!」
「んン、や、ぁ……っ! そ、な、こすっちゃだめ、だめ……ぇ」
「……っ」

……ヤベ、勃ちそ。
不謹慎にも下劣極まりねぇかもしんねーけど仕方ないだろ。逆に惚れた女のこんなヤらしい声聞いて反応しねぇヤツが居るんならソイツはよっぽどの鈍感か単なる勃起不全だ。
消え入りそうなあえかな声、色を帯びた熱っぽい吐息。
声を押し殺そうと口許に添えられた小さな手、涙で濡れた伏しがちな睫毛。
あまつさえ全身を血流と一緒に駆け巡る衝動を堪えてる時に、追い討ちをかけるような、あまりにも苛烈で扇情的な刺激の強い光景に、俺ん中で何かが途切れる音がした。

「名前」
「っぅや、がれ……」

本気で拒まれないことに味をシメて、理性の枷がはち切れた俺は、ビクビクと肩を跳ねさせる名前の耳に自分の口をくっつけて息を吹き込む。
冗談抜きで、真面目にキツいっての。生殺し過ぎんだろ。
みっともなくがっついて、名前の耳の軟骨に歯を立てた。瞬間、名前は今までより大きく震えて腰を抜かしたように、壁に寄り掛かりながらズルズルと崩れ落ちていく。
荒い呼吸に伴って忙しなく上下してる肩。
…………まさか、オイ、うそだろ。

「……イったのか?」
「……!! 〜〜〜っ」

身も蓋もなくストレートに問い掛ければ、名前は途端に堰が切れたようにボロボロと泣き始めるから俺はらしくもなくギョッとして「泣くな!」としゃがんで目線を合わせた。
ひっきりなしに透明な雫が流れてくる目を袖口の裾で少し乱暴に擦ってやれば、けれどそれにも感じてるかのように名前は身体を震わせて「んっ、」と微かに矯声を漏らす。
ああクソ、どうすりゃいい。
女の慰め方とか知らねーしこんな些細なことにもいちいち過剰に反応されてたらキリがねぇよ。

とりあえず目元を擦る動作を止めて俺が途方に暮れてれば、名前は深呼吸して落ち着きを取り戻した後「……あの、ひとまず場所、移動しよう?」と躊躇いがちに提言してきた。
確かに此処は未だ学校ん中で、いつ誰が廊下を通りかかるとも分からない場所だ。しかも俺らが居るのは一階で、下手すりゃ部活中のヤツに目撃されることもある。
万が一でもそうなれば周りに潔癖症で徹してる名前には、分が悪くなる事態に陥りかねないワケで。後先のことを考えて、俺はすっかり意気消沈した名前を連れて学校から結構離れた公園にまで足を運んだ。


「──全身性感帯?」

なんだそれ、と缶コーヒーを飲みながら訝しげに呟いた。力なく項垂れてる名前はホットココアを両手で握ったまま微動だにしない。けど俺がそう口にしたことで、もう稚拙な言い逃れは利くまいと悟ったのかコクリと首肯した。
……全身性感帯。
言葉の意味を舌の上で転がし喉の奥に嚥下する。

そんなのあんのか、と思ったがコイツの覇気が無くなった様子を見て、何よりあんな過敏な反応を目の当たりにして納得しないわけにはいかなかった。
世の中には俺が知らねぇだけで色んな体質のヤツが居るんだろうし、中には名前みたいに摩訶不思議な特異、って言ったらアレかもしんねぇけど珍しい体質もあるんだろう。それならば確かに最初から潔癖症と偽って、他人を退けておけば無闇に触れられることもない。
──成る程な、と合点がいって腹落ちすれば、名前は依然として落ち込んだようにポツポツと話し出す。

「病院を回ったけど、神経の過剰伝達が原因なんじゃないかとか、ある種の強迫概念でもあるんじゃないかとか、いろいろ言われて……。沢山の治療薬とかカウンセリングとか試したけどてんで効果は無くて、今となっては先生達もお手上げでほとんど匙を投げられた状態で……。ずっとどうしようって悩んでたんだけど、こんなこと簡単に誰かに相談出来るわけなくて」
「……まぁ、だろうな」

突然、「私、全身性感帯なんです」とか打ち明けられた日にはドン引きするヤツが大半だろう。
ぶっちゃけ俺だって相手がコイツじゃなかったら例に漏れずドン引きしてただろーし。
それに名前は常日頃の八方美人が災いして特別親しいっつか、そういうことを相談しても良いと思えるような深い仲のヤツは居ねえみたいだ。
そりゃ深刻に悩みもするだろうな。挙げ句、肝心の医者にも施しようが無いとか無責任に見放されたら。

「勿論このまま潔癖症だからとか、そんな微妙な言い訳がまかり通るとも思ってなかったよ。……実際、花礫くんにはこうしてバレたし」
「イヤ、俺も信じかけたけど。お前、潔癖症とか言ってるわりには平然と他のヤツも触った公共物に触ってたろ。だからなんか妙な違和感ってか、おかしいって思っただけだし」
「……そんなとこまでよく見てたね?」
「それは──」

……あっぶね、うっかり口滑らすとこだった。
咄嗟に口に手を当てて顔を逸らした俺を名前は怪訝そうに眉を寄せてまじまじと窺う。
視線が痛ぇ……。我ながら無理があると承知しながら咳払いし「とにかく!」と話の軌道を修正すれば、名前はますます物言いたげな表情を浮かべた。

「それでお前はどうしたいんだよ、治す気あんの?」
「なっ、治せるものなら今すぐにでも治したいよ! けどそれが出来ないんだからどうしようもないじゃない!」
「荒療治すればいーんじゃねえの」
「…………は?」
「荒療治」

俺が放った発言に、名前はまるで理解出来ないと言わんばかりにポカンと呆けた顔をした。格好の獲物を前にして口角がつり上がる。
性感帯? おまけに、全身?
へぇ、ふぅん。あっそ。──そりゃ好都合。またとないチャンスに含み笑いを浮かべた。

俺は協力と称して名前に触れる、名前は体質を克服とまではいかなくてもある程度耐性を付けることが出来るかもしれない。少なくとも可能性は零ではねぇし、やってみる価値はあるだろ?
まさしく一挙両得。
名前は体質を変えられれば、俺は名前をモノにすることが出来れば。願ったり叶ったりでお互い応分のメリットもある。
この手を利用しないでどうすんだよ。

「が、れきく……? 何言って、ひやっ」
「ああ、言っとくけど、冗談じゃなくマジで言ってっから。……俺が手伝ってやるよ」
「まっ……、な!? やっ、駄目、さわ、ら」
「名前」

俺が、その体質治してやる。
髪を撫でると身悶える名前に顔を近付けた。
いやいやとかぶりを振って弱々しく抵抗をする相手の顎を掴んで固定し、俺は恐らく、いや間違いなく熱の籠った眼差しで真っ直ぐに射抜く。
怯えたように揺らぐ名前の目。

……でも逃がさねーよ。
引け腰になってるところに畳み掛ける如く、俺は陥落させるトドメの一撃を容赦なく打って出た。

追い詰めてみましょう


耳の輪郭をしゃぶる、舐める、舌でつつく。こうすりゃ呆気なく相手はオちた。

(分かった!! 分かったからもう勘弁してぇっ……!!)
(よし、)

頷かないなら頷かせるまで。
第一布石、ミッションクリア。
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