03
風見のスマホに送信された住所に向かってみれば、そこは警視庁と“降谷零”の自宅の間ほどにある場所だった。ちなみに安室のセーフティーハウスは米花町に契約している。BARがあるらしい住所を検索すれば、なかなか交通は便利な場所で中心地に近い場所であるから土地代はまあまあするはずだが、彼の幼馴染はなかなかに懐が暖かいらしかった。
その建物は少し裏道に入ったところにぽつんと建っており、コンクリートの大きな箱のような建物だった。外観だけ見れば3階建のようで、BARをやっているという割には、まったく看板も出ていなければそういった装飾があるわけでもない。
近づいてみればなるほど。小さい表札のようなものに【Whiskey Bar Copal】と書かれており、温かいオレンジのランプが灯っていた。
「降谷さんについて来て頂いて正解でした。」
「確かに。」
この雰囲気だと、初めての来店は一人では入りづらいかもしれない。だが、こういった建物はそれこそ密会などには使いやすいのではないだろうか。
すぐそういった思考になる自分に嫌気がさす。今から会うのは部下の幼馴染で、一般人だ。
いざ、と扉に手をかければ、随分と重く分厚い扉が開く。そして外には全く漏れていなかったピアノの音が耳に届いた。
「いらっしゃいませ。」
扉を開けた先にはピンと綺麗に背筋の伸びた、白いシャツに黒いベストを身にまとった女がカウンターからこちらを見ていた。
女。…女性だったのか。その驚きもあり、一瞬動きが止まる。
向こうも思っていた人物と異なる人間が現れたことに驚いているのだろう。一瞬の、沈黙。よく考えれば何故顔見知りでもない自分がドアを開けたのだろう。ここは風見に先に入ってもらうのが良いに決まっている。つい、仕事柄上司である自分が率先して前を歩く癖が出てしまったのだ。お互いに固まるこの状況に気付いたのか、慌てた様子で後ろから風見が顔を出した。
「あ、裕也。もう、誰かと来るなら先に言ってよ〜。ビックリした。」
「先に言って…って、それをお前が言うのか??久しぶり、名前。」
風見の顔を見た途端、へにゃりと目の前の女は笑う。
裕也…裕也。誰だ。いや、こいつだ。この優秀な部下だ。風見裕也。フルネームは知っているはずなのに、何故だか心がぐらりと動揺した。もちろん自分はこの部下を苗字以外で呼ぶことなど考えたことはないし、今後もそんな機会は来ないだろう。そんな仕事仲間の下の名前が、当然のように紡がれたことに自分でも理解できないほどに動揺していた。
そして、ハッと気づく。何の打ち合わせもしていなかったが、どうする。
いやまあ、この部下もいつもそつなく潜入捜査中の自分に合わせてくれるではないか。なんら問題は無い。俺は、…いや僕は安室透だ。探偵の安室透という人物の人当たりの良い笑顔を作り上げようとしたその時、ガラス玉のような瞳がこちらを捕えたのが見えた。
「…あ!裕也…くんのお仕事仲間の方、かな?ということは、警察官の方ですよね?お会いできて嬉しいです!わたし、苗字名前と申します。」
まるで警察官であることが決定事項のように紡がれたそのセリフに、動揺した俺の脳みそはうまくついていっていないようであった。まさか風見が自身のことを、公安のことを話しているとは思えない。まして”降谷零”のことを話しているはずがない。
「ああ、えっと初めまして苗字さん、僕は―――」
「あっ、”ふるや”さん?」
突然紡がれた自身の名前に、喉の奥がギュッと鳴ったのが、自分でも分かった。
おそらく、目の前にいる彼女にも、隣にいる部下である彼にも、その音は届いてしまっただろう。
いつも裕也くんがお世話になってます。あ、わたし彼の幼馴染で―…そう言いながら笑顔で話す彼女を視界に入れながら、隣の男にちらりと視線をよこす。顔に”ヤバい”と書いてあるように見えた。なんだ…どっちだ。どういう表情なんだそれは。あと「裕也くんがお世話になってます」ってなんだ。どんどん追加射撃をお見舞いしてくれる彼女になんと返答したらいい?この状態から、降谷?誰です?僕は私立探偵の安室透ですよ。とさわやかに挨拶するのは、例え相手が一般人であっても、もはや不自然だ。否定をするタイミングはあった筈なのに、あまりにも自然に彼女の中で肯定された”この人は警察官のふるやさん”というこの状況に、完全に脳は追い込まれていた。この、恐らく1秒か2秒のこの”間”に、俺の動揺を読み取ったように、きょとんとした表情をした彼女が続けた。
「あ、ごめんなさい。何度か、彼…裕也くんと電話してましたよね?あなたの声が、その電話越しに聞こえた声のように感じたので…。その時、彼が小さい声で電話先の相手をふるやさんって呼んでいるのが聞こえて、なんとなくそうかなって。違ったのならすみません。」
「…ああ、そうだったんですね、すごい記憶力だ。…では、改めて。風見さんと同じ部署に所属しています、降谷零といいます。」
隣の男から、息をのむような音が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。
潜入捜査を始めてから、一度だって人前でこの名前を名乗ったことはなかった。これが組織につながる人間であったなら、俺は近日中には始末されるだろう。部下の幼馴染であっても100%白ではない。頭の中でこの一般人に見える女が組織に繋がっている可能性を、ぼんやりと考えてみた。何故か、必死になっている自分はそこにはいなかった。
「裕也ったら職場のことを全然私に話してくれないし、もちろん仕事仲間を紹介してくれたことなんてなかったから…嬉しいなあ。よしよし、お礼として今日は奢っちゃおう!」
目の前の女は満足そうに笑い、なんでもなかったように手元の拭いている途中だったグラスに視線を戻した。
何も話してくれないと不満を口にする割には、追求されることはない。もう自己紹介は終わったというように、拭き終わったグラスを飾っていた。
「どうぞ、お二人とも好きな席に掛けて。あ、お腹すいた?」
「そういえばさっき煮込みハンバーグがなんとかって言っていたが、BARでは料理は出さないんじゃないのか?」
「BARで出すのはチョコレートとかナッツとかかな。あれ?裕也に言ってなかった?これ、3階が私の自宅になってるんだよ。」
「聞いてない。むしろお前からはなんにも聞いてない。」
「え〜なに、怒ってるの?あ、降谷さんはお腹どうですか?」
幼馴染ってすごいなと思った。
風見がこんなに雑にあしらわれているのを初めて見た。…俺が言うのもどうかと思うが。
他人が作ったものは口にしない。これは潜入捜査では徹底している。だが、例えばポアロで新作のデザートの味見を梓さんに頼まれればやるし、蘭さんに夕飯の残りを頂けば、食べる。俺が今この食事の場で毒殺でもされようものなら犯人は一目瞭然。この場には風見もいる。なんだかもう、本名を明かしてしまったこともあり自分の思考はだいぶん投げやりだった。
「ああ、じゃあ、頂きます。」
「はーい。準備してきますね。」
そういって、彼女――苗字名前さんは自宅だと言っていた3階に上がっていった。一度玄関を出たところを見ると、上の階につながる階段は外にあるらしい。当たり前か。
なんだか不思議な女性だ。妙にさっぱりしすぎているように感じた。自分に興味がないという単純な理由かもしれないが、でも彼女は言ったのだ。『幼馴染は職場のことを話さず、職場の人間を紹介もしてくれない』と、まるでそうしてもらうことを望んでいるのにと拗ねるように。
その割には、自己紹介はさっぱりしたものだった。名前だけ。『同じ部署に所属している』と探るチャンスを与えたにもかかわらず、その発言を拾わなかった彼女。
相手は部下の幼馴染。だが初対面の相手だ。こうして出会う人出会う人に疑いをかける癖は職業病であり、自分の命を繋ぐ大切な習慣だ。石橋は叩きまくって渡るに越したことはない。
「降谷さん、申し訳ありません…。大丈夫ですか?」
「いや、俺こそ疑うような真似をしてすまない。」
俺の真意を理解しているのであろう。隣に座る部下は心配そうな、そして申し訳ないような顔をしていた。だが、いくらでも”安室透”で無理やり乗り切れたはずのあの場で本名を名乗ったのは自分だ。何故か当たり前になっていた嘘がつけなかった。まだ飲んでもいないのに酒でも回ってしまったんだろうか。
せっかくウイスキーバーに来ているんだ。今日は楽しんで帰ろう。