07
誘導されるがまま、前回と同じくカウンターの席に通される。
飲み物を用意する前に「ちょっとすみません」と一言言ってどこかへ消えた名前さんは、花束を持つ手とは反対の手に大きな花瓶を持って登場した。花束をもらえば花瓶に移すのは当然だ。ぼんやりと座ったままだったことにハッとして、「あ、すみません!」と立ち上がるも「座って」と彼女に制される。いやいや。そんなに両手に大荷物で何を言ってるんだこの女性は。
「手伝います。」
「大丈夫ですよ。お客様は座っていてください。」
「そんな両手いっぱいに物を持ったら危ないですよ。」
「大丈夫ですってば。」
頑なに譲らない性格はなかなか頑固なように思う。
なるほど、男性に頼って生きるタイプの女性ではないらしかった。こちらのことをお客様という割には、ゴン!と盛大な音を立ててカウンターに置かれた花瓶。その底の部分には有名なクリスタルのラグジュエリーブランドの名前が刻まれている。このBarの内装といい、なかなかお金がかかっているらしかった。
パチンパチンと慣れたように剪定する手先は本当に慣れているようで、迷いなく花の茎を整えている。鋏もきちんと剪定用の鋏のようで、先日の氷を削るテクニックといいなかなか器用な人だ。そんな彼女はしかし、先ほどまでお酒を飲んでいたこともあって頬がほのかに赤く染まっていた。染まる頬だけを見るとそこそこお酒が回っているようにも見えるのに、サクサクと手元は動いていく。何故か見飽きないその手元をじっと見ていると、何かに気づいたように名前さんは「あっ」と声を上げた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや…ごめんなさい、飲み物を作る前に花なんて触っちゃって。いくら洗うって言っても、なんだかこの手で氷なんて触られたら気分が悪いでしょう?」
心底あっちゃーという顔をする名前さんに、俺は何だそんなことかと思った。別段自分は潔癖症ではないし、それこそ一度任務につけば衛生面が危なくともあまり気にすることはない。
「別に気にしませんよ。」
「いや、私は気になります。」
「ああ、じゃあこれを頂いておきますので、ごゆっくりどうぞ。」
そう言って、彼女に了承を得る前に先ほどまで彼女が飲んでいたグラスを傾ける。それを見た彼女は一瞬ぎょっとした顔を見せたが、その後すぐにじわじわとその眉間を寄せていった。
「…降谷さんのそういう慣れてる感じなの、ちょっと嫌なんですけど。」
「誰にでもしているわけではありません。」
「ええ〜ちょっともう…そういうの裕也に教えないでくださいよ…!」
もちろんこれは100パーセント彼女をからかっている。じゃないと他人の飲み物を口に含んだりするものか。前回から思っていたが、彼女はなかなか反応が素直でからかうのがちょっと面白かったりする。
そんな彼女は花の剪定が終わったのかそれを花瓶にさしてバランスを整えていた。適当に切っていたようにも見えるくらい迷いなく鋏を入れていたのに、花瓶に飾った花は驚くほどにバランスが取れていた。満足そうに花びらを撫でた名前さんは、その花をカウンターからよく見える場所に移すべくこちらに背を向ける。――ここで初めてあることに気づいたが、それをどう伝えたらいいものかと口を噤んだ。いやいや。男子学生じゃあるまいし、ストレートに言えばいい。頭の中ではそう思うが、らしくもなく少し戸惑ってしまった自分を自覚してしまってはなんとも普通を装いづらい。そんなこちらの気も知らないで、くるりとこちらを振り返った名前さんは自分の飲みかけを俺が飲んでいることはもう気にしていないのか、もう困った顔はしていなかった。
「というか本当にそれで大丈夫ですか?この手でよければ、新しいの作りますよ。」
「…いや、それはもう大丈夫です。」
「ん?突然歯切れ悪いですね?飲みかけなんて飲むからですよ。」
ふふ、と無邪気に笑う笑顔が眩しい。白いシャツも眩しい。前回と違うのは名前さんが黒のベストを着用していないということであるが、もしかしたら彼女は普段からインナーは着ていないのだろうか。白いシャツの向こう側の、黒い下着がけっこう大胆に透けていた。
「…名前さん、今日はベストは着てないんですね?」
「ん〜、というかお客さんが来るとは思ってなくて。普段はお客さんから連絡がある時だけ開けてるんですよ、この店。」
「じゃあ、今日はどうして?」
「なんだか私が飲みたい気分だったんです。」
「じゃあ、飲みましょう。僕のことはお客だと思わなくていいですから、遠慮なく。」
自分用に出したのであろうグラスに注がれそうになるウーロン茶を、腕を伸ばしてそっと制す。こちらに気を遣ったのだろうが、お酒が飲みたくて店を開いていた彼女に連絡もなしに突然来店したのは自分なのだ。
「あ…でも、その…私、お酒は好きですけど、そんなに強くはなくて。」
そんな彼女の発言に、ついふっと笑ってしまう。本当に、見た目はきちんと大人の女性で落ち着いて見えるのに中身はこどもっぽいというか、下手に素直というか。
「名前さんって、本当に危なっかしいですね。今の発言、悪い男だったらあの手この手で貴女のことを酔い潰そうとするに決まってますから、本当に何をされてもいい人以外には使ったらダメですよ。」
「え、あ…」
「でもまあ僕は悪い男ではありませんから大丈夫です。お酒を注いで、はやく座ってください。僕の気が散ります。」
「突然ジャイアン降臨しないでくださいよ。」
その発言に、チェイサーのグラスからロックグラスへと変更した彼女は、いつも削っている氷ではなくおそらく市販のロックアイスをグラスに入れ、なみなみとそこにウイスキーを注いでこちらへと歩いてきた。確かに遠慮せずに酒を飲めと勧めたのは自分だが、言葉通り遠慮なくなみなみと酒を注いでくるあたり本当に名前さんは飾りっ気のない素直な女性だ。だがお上品とは言えない。
もう片手にはそのグラスに注がれているであろうウイスキーの瓶が握られていた。カウンターに座った名前さんと俺の間に置かれたその瓶が意味することは、これを一緒に飲もうということなのだろう。多分、今俺が飲んでいるのもこの酒なのだ。いつのまにかカウンターの提供スペースにはアイスペールも準備されており、そこには彼女のグラスに入っている市販のロックアイスが入れられていた。ああ、こういう、女子特有の遠慮が何度も繰り返されないところが、なんかいいなと思う。目の前の彼女は遠慮こそするものの、こちらが言い聞かせれば一度で受け入れてくれるらしく、そういった姿勢は面倒くさくなくて自分にとってはちょうどよかった。
指示通りカウンターに座る自分の隣に座った彼女は、こちらを見ずにまっすぐカウンターの中を見ている。その横顔を眺めながら、やっぱり彼女の横顔は綺麗だなと思う。もちろん正面の顔が綺麗じゃないというわけではなく、こちらを視界に入れていないその顔が、なんだか好きだった。
「綺麗ですね。」
「――えっ。」
「え?ほら、降谷さんが持ってきてくれたお花ですよ。」
まるで自分の心が読まれたのかと思った。タイミングが良すぎるその発言に内心ヒヤッとするものの、なんだ、花か。確かにカウンターに座るこちらから一番綺麗に見える位置に置かれたあの花は、一般的に見て綺麗なんだろう。活け方だって完璧なのだ。
それでも、その花をみても、彼女の横顔を眺めているときほどは「綺麗」という感想は出てこない。買ってきてなんだが、自分はあまり花には興味が無いようだった。
「名前さん。」
「はい?」
「もう今日はお店クローズにしてゆっくり飲みませんか?」
「どうせこのまま開けてても誰も来ないとは思いますけど、かまいませんよ。」
「良かった。じゃあ、よかったらラクな格好に着替えてきてください。そんな堅苦しい恰好していたらゆっくり飲めないでしょう?」
「え〜?降谷さんだってスーツ着てるじゃないですか。」
くすくすと上機嫌に名前さんは笑う。きっと何言ってんだこいつぐらいに思っているんだろう。遠回しに服装について触れて気づかせようとしているのに、割と鈍感なんだな。
「では、単刀直入に言いますけど。」
「?はい。」
「透けてますよ。」
「え?」
「ブラジャー、透けてます。」
きょとんとした顔をする彼女にはっきりと単語を出して指摘すれば、途端にバッと自分で確認し、さらにわかりやすく顔を真っ赤に染めていた。はあ〜なんだろうなこの癖になる感じ。もしかしたら昔からこういうちょっと抜けた感じなのだろうか。ぜひその辺を部下に聞いてみたいところだ。
「な、な、なん…っていうかもっと早く教えてくださいよ…!ほんと降谷さんって意地悪!」
「おや心外ですね。言わずに眺めておくことだってできたんですから教えてあげただけ感謝してください。」
「そ、それは…まあ、そう、ですかね?ええ〜…でもなんか納得できない。」
むすっと口を尖らせてぶつぶつ言いながらも、ぼそりとありがとうございますと言った名前さんは隣の椅子に掛けてあった黒のベストを手繰り寄せ、下着を隠すように身に纏う。感謝してくださいと言った俺に対して素直に礼を述べる彼女を見て、こんなにちょろくてよく今まで無事に生きてこられたなと思う。まあ、自分なんかとは違って平和な世界に生きていれば無駄な警戒心や回避スキルを身につけなくてもいいのだろうが。…なんだか住む世界が違うのだと突き付けられたような気がしてちょっぴり寂しく感じたのは、きっと酒による気の迷いだと自分自身に言い聞かせた。
「このお酒でよかったですか?」
「ええ。おいしいですよ。」
「じゃあ今日はかわいい花束をもらっちゃったし、私の奢りです。改めて乾杯。」
控えめにかちんと鳴ったグラスは適度に重たくて、手のひらになじむ。先ほど花瓶に刻まれていたクリスタルブランドのブランド名がこちらにも刻まれていた。きっと彼女のお気に入りなんだろうな。センスは、いいと思う。
「名前さん、前回も思いましたけどそんな奢ってばかりいたらお店やっていけませんよ。これでも僕は稼いでいますから、搾り取ってくれても構いません。」
冗談っぽくそう言ってみれば、ニコニコ上機嫌に笑っていたはずの彼女の目がすうっと細められる。その探られるような視線に、なんだかいつもの彼女とは違う一面を見たような気がして、目が離せない。
「名前さん?」
「分かりますよ。」
「え?」
「降谷さん、稼いでるんだろうなーって。というか、稼ぎと立場に見合った服装してるじゃないですか。スーツの皺の感じもフルオーダーなんだろうなって見てわかるし、靴だってそれビンテージものじゃないですか。どれもでかでかとブランドロゴこそ入ってませんけど、こういう一見わかりにくいもののほうがセンスあるなあって思います。しかもどれもヨレも癖も毛玉もほつれもないところを見るによほど手入れが行き届いているか…私の予想としては割と頓着なしにダメになれば見切りをつけてさっさと捨てていると見た!」
「驚いたな、そんなにしっかり見てくれてるなんて。高評価なところ申し訳ないですけど、これでも女性に会いに来るからと無理して見繕ってきたんですよ。」
「はいダウト〜。そんなこなれたカフスつけておいて何言ってるんですか?モテる男は怖いなあ〜。」
自分のことに関しては鈍いくせに他人のことはよく見ているらしい彼女が言ったことはおおむね当たっていた。ブランドロゴの主張がなるべくないものをチョイスしているのも事実であるし、言われてみれば今日のスーツはセミではなくフルオーダーのものだ。そしてスーツもそうだがシャツや靴下なんかは使用感がでてくれば手入れをしている時間などもちろん無いため捨ててすぐ買い替えていることも当たっていた。普段は自分が探る立場であるからか、こうして探られる立場にいざ立たされると不思議な感じがする。
「裕也はあんまり着飾ることに興味がないみたいなので、なんかほんとに降谷さんとは全然タイプが違って面白いです。」
「あ〜、確かに着れればいいって思ってるところありますね、彼。」
「そうでしょう?この間だってね?――」
こちらが居心地が悪そうにしていることを察したのか、話題を変えてくれた名前さんはその話題の中心を彼女の幼馴染であり自分の部下である男へと移していった。共通の話題というのはこんなにも盛り上がるのかというほど話には花が咲き、二人の間に置かれていたウイスキーの瓶はあっという間に空になってしまい、なんとさらにもう一本綺麗に開けてしまっていた。
なんだ、あまり飲めないなんて言っていたけど、わりといける口なんじゃないか。
途中、名前さんが作り置きしていたらしい漬物なんかもつまんだりして、それがまたおいしいのもあって酒がみるみる進んでいった。そもそもお酒をこんなに店で飲むことは潜入捜査を始めてからは控えていたから、なんだか不思議な気分だ。彼女と出会ったのはたまたまだったが、これはいい出会いだったなと思う。紹介者の部下をのけ者にしていることに若干罪悪感を感じないでもないが、きっとまた自分は一人でもこの店に来るんだろうと思う。
一人でぼんやりそんなことを考えている間に、隣に座る彼女がどんどんふやけていっていることにはこの時はまだ気づいていなかったのである。