08
「あ〜、えっ誰がこんなに飲んだんですか?もう、次開けますよ!なに飲みますか?」
「いやいや大丈夫ですか?ちょっと名前さん酔ってません?」
「いや酔うでしょふつー。こんだけ飲んで酔わないほうがおかしいです。」
じっと不満そうにこちらを見つめる名前さんの瞳は、髪色やまつ毛の色とは違って蜂蜜のような色をしている。オレンジのライトを吸収してきらりと光るその瞳は、なにかの宝石のようだった。そんなことをぼんやり考えていると、彼女の捲った白いシャツからのびるさらに真っ白な腕がにゅっと自分のほうに突き出されるのが見える。いつもなら回避できるはずのその動作に反応できなかったことで、ああ自分も相当酒が回っているのだなと気づかされた。
「ふるやさん、ぜんぜんよってませんね〜?」
「あ〜やめろこの馬鹿女〜。」
「うわ、ふるやさん口わるっ!」
きゃっきゃとこどものように笑う名前さんの手が冷たくて心地いいので口では毒づいたが特に払いのけることなく好きにさせていると、彼女は遠慮なく俺の顔をむにむにと触っていた。何が楽しいのかさっぱりわからないが、酒の力も働いてか会うのは2回目だというのにずいぶんと距離が縮まったように思う。もともとこちらとしては知り合いの昔馴染みということで大して警戒はしていないが、初対面で印象の悪いことをしてしまって彼女のほうが自分に対して警戒していると思っていたので、今日の感想としては警戒して懐いてくれなかった猫がすり寄ってきたようで悪い気はしなかった。
人の顔でさんざん遊んで気が済んだのか、腕をひっこめた名前さんはカウンターに頭をもたげて緩い顔のままこちらを向いていた。不覚にも、その飾り気のない緩い顔がかわいいと思ってしまう。
「はあ〜、コーヒー飲みたい〜。」
「唐突だな。」
「え?お酒のあとはコーヒーでしょ?」
「いや、俺はもっぱらラーメン派です。」
「ふふ、『おれ』だって〜。ねこかぶりふるやめ…」
「おい、寝るな。」
ふにゃふにゃと話し始めたと思ったらカウンターに頭を預けたままその両目はぴたりと閉じられていた。その事実にも慌てるが、いつの間にか自分が自分のことを俺と言ってしまったことにも焦る。なにがトリプルフェイスだ。何故かはわからないが、一度緩んでしまったら引き締められないのかこの店での自分がうまくコントロールできないでいた。
とりあえず、マスターである彼女がこの調子なのだ。もう今日はお開きなのだろうと自分と彼女が使っていたグラスを持ってカウンターの中へと入る。ちらりと彼女に視線をやるが、すうすうと寝息が聞こえてきているから寝てしまったのだろう。邪魔なので脱いだジャケットをカウンター越しに彼女に被せても起きる気配はなかった。
グラスを洗ってチョコレートを冷蔵庫にしまって、さてと考える。
この店のソファに彼女を寝かせて帰るのもありだが、3階が自宅ということは前回聴取済みだ。せっかく自宅の場所がわかっているのだから、それならばベッドに寝かせてやるほうがいいだろう。
「…名前さん」
すやすやと眠る彼女の寝顔を見ていたらなんだか起こすのも忍びなくて、自分から出た彼女を呼ぶ声は起こす気があるのかと問いたくなるほどに小さい声だった。なるほど、前回は彼女を甘やかす部下を見てまるで兄妹のようだとからかってみたが、甘やかしたくなるのも分かる。見た目の大人っぽい雰囲気とは裏腹に、行動や発言はちょっと幼くついつい手をかけてやりたくなるのだ。
ふと、もしかしたら鍵のことを幼馴染である風見ならば知っているんじゃないかと思った。自然と携帯に伸びる腕は、しかし彼が「自分が今から行きます!」と言って気を遣ってこの場に来てくれる未来まで想像してぴたりと止まる。こんな夜中にそれも申し訳ないし、この状況を見られればそれはそれで面倒くさい。仕方がないので強行突破すべく彼女のポケットを探れば簡単に自宅とこの店の鍵のようなものを見つけた。
「名前さん、おうちまで運びますからね。」
念のためそう断りを入れて、かけていたジャケットごとひょいと彼女を持ち上げる。鍵を使って店を閉め、階段を上って自宅へと上がるとこちらも問題なくもうひとつの鍵で開錠した。
センサーに反応したのか勝手に明かりのついた玄関から誘導されるようにリビングへ進む。寝ぼけているのか首に抱き着いてきた名前さんの身体からは石鹸のにおいがした。とりあえず今は一刻も早くこの酔いどれをベッドに沈めなければ、自分も男なので反応してはいけないところが反応してしまいそうだった。風見もさんざん叱りつけていたが、再教育が必要なのではないだろうか。あまりにも無防備だ。
初めて見る彼女の部屋は、一言でいうとシンプルだった。白を基調としたインテリアもさることながら、必要最低限のものだけ置いていますといった感じだ。降谷零の自宅とどこか似ている。そして彼女は自炊をするタイプだと風見に聞いていたがそれはやはりそのようで、しかし何かを調理した痕跡こそあるがそれがあまり真新しく感じられないのが少し気になるところだ。とりあえず、リビングのソファにいったん彼女を寝かせる。
「とりあえず水は…と。」
整頓された食器棚からグラスを取り出す。本当はプラスチックのコップが理想的なのだが該当するものが見当たらないため仕方なくガラス製のものを取り出した。これはお店のもの同様、同じブランドのグラスのようだった。冷蔵庫に入っているミネラルウォーターを注ぎ、まずは自分が頂く。もはや自分だってアラサーだ。今更間接キスがどうだとかは気にしていない。――それがベルモットなど何をグラスに入れるかわからない人物を除いてではあるが。
グラスの水を飲みほしたあと、同じ量注いで彼女のもとへと運ぶ。よくもまあ、出会って2回目のしかも異性を目の前にこれほどまでに熟睡できるものだ。もはや感心するレベルだと言える。
「名前さん、お水ですよ。」
「ん〜」
「飲まないと脱水しますよ。」
「ん…」
そう言葉といっていいのかも怪しい音を口にする彼女は、寝転んだ体制のまま目は閉じた状態で両手をこちらに伸ばす。いやいや、渡すわけがない。改めてプラスチックのコップの必要性を感じた。
「これ落としたら危ないですから、渡せませんよ。飲むなら起きてください。」
「ん、はい。」
「はい?」
「あー。」
いつまで経っても瞳は開けないくせにぱかっと口を開いた名前さんは、そのポーズのまま何かを待っている。…まさか水をこのまま注げと言っているのだろうか。
「顔面にぶっかけますよ。」
「はやくー」
「…。」
なんて手のかかる妹なんだろう。内心風見に若干同情する。これが本当にどうでもいい女ならば見て見ぬふりをするかもしれない。それでも放って帰らないのは、やはり彼女には放っておけないなにかがあった。
「起きずにそのまま阿保みたいに口を開けておくなら、口移しで飲ませますからね。」
「…ん〜、」
「あと3秒。」
そうカウントダウンを宣告しながら、まだまるっと3秒あるのにグラスの水を大量に口に含む。
別にどうだっていい。これがキスにカウントされようがされまいが、誘ったのは彼女なのだ。
そう言い訳しながら、久しくなかった女性とのじゃれあいを楽しんでいる自分がいた。
半分眠りに入っているのか先ほどの口を開けた状態からほとんど口も閉じて首も片方に傾いている彼女の顔をがっしりと片手で固定し上を向かせる。
…馬鹿だな。だから裕也お兄ちゃんも忠告してただろ。
痛い目見て自覚すればいい。一瞬部下に悪いような気持ちもよぎったが、いい大人同士のプライベートだ。そんなの、関係ないよな。
ぐっと顔を近づけた瞬間、こちらはもう水を送り込む準備は万端だったのだが、口と口が触れるほんの一瞬手前で、ぱかっと彼女の大きな瞳が開かれた。あまりにも予想外な展開に勢いはとまらず、しかし吹き出しそうになる水をすんでのところで飲み下した。もちろんむせてしまって、彼女の顔からそらして必死に咳をし整える。
「げっほ、ごほ、っ、」
「……あれ?」
「…っ、あ、あなたねぇ、っけほ、」
「あれ、ふるやさん?ていうかあれ、ここ私の家…」
ぼや、と瞼の重そうな半開きの瞳が、ゆるりとこちらを捕えていた。
「…あれ、ちゅーしました?いま」
なんでもないように目を擦りながら投げかけられたその質問に、ちりりとプライドに火が付いたのが自分でもわかった。なんだそれ。
「まだしてませんけど、していいならしますよ。」
別に好きとか嫌いとかそういうのではない。でもこれだけ無防備な据え膳があるのだ。男ならばそれを試食してみようかと思うのは別段おかしいことではないのではないだろうか。もし万が一この据え膳が拒否をすれば、今であればまだ止めてやらんこともない。
どうなんだこの無防備女、と向こうに判断を一任したつもりでじっと彼女を観察する。ぱち、ぱちとゆっくり瞬きをした彼女から読み取れるのは、完全に寝ぼけているということだけだった。
「…とりあえず、コーヒーのみませんか?」
…だんだんと、なんだか馬鹿らしくなってきた。彼女が悪意なくただコーヒーが飲みたいのだな、ということが明確にこちらに伝わったからである。なんだこの生き物は。
はあとため息をついて彼女に手を伸ばせば、ゆっくりと広げられた両手が絡んでくる。その腕をとってゆっくりと体を起こしてやれば、その上半身はぐらぐらと船を漕いでいた。
「ほんとにコーヒー飲むんですか?カフェイン摂取するよりそのまま水を飲んで寝たほうがいいような気がしますけど。」
「ん…お酒のあとはコーヒーってきめてるんです…」
ゆるゆるとソファから降りた彼女は、ふらふらとキッチンへと向かう。なんだか肩透かしを食らったようなそんな何とも言えない気持ちではあったが、変に気まずくならなくて済んだこの状況に安心している自分がいることも事実だった。
「あ、ふるやさんシャワーどうぞ?」
「はい?」
「わたしじつはバーにいくまえにはいってたから…もうこのままねちゃいます…。ふるやさんはしごとがえりみたいだし、バスタオルはたなのいちばんうえです…。」
ゆるゆるとした口調は明らかに半分寝ているが、このまま泊まって行けということを言っているんだろう。さすがにこの流れでこの後ベッドで何かがあるとは思えないが、本当に彼女は大丈夫なんだろうか。呆れを通り越して心配でしかない。
「あなたね、風見に言いつけますよ。」
「だってふるやさんくるまでしょー?」
「…なんで知ってるんですか。」
「ふふ、ナイショ。」
相変わらずにこにこと上機嫌な彼女は、やっぱり鋭いのか鈍いのか分からない。
ぐいぐいと背中を押されて閉じ込められたシャワールームをもう素直に使用させてもらい出てきてみれば、洗濯機の上には男物のTシャツとハーフパンツ、新品の歯ブラシが置かれていた。眠そうにはしていたが彼女は泥酔しているわけではないらしかった。
…それにしても前回店に来たときは男物の着替えがないようなことを言っていたのにこれはどういうことなのだろう。もやっとしたまま廊下を歩きリビングへの扉を開けると、コーヒーのいい香りが鼻腔を擽った。
「…シャワー頂きました。」
「はーい。」
リビングに戻れば、彼女は比較的先ほどより目が冴えた様子でコーヒーを飲んでいる。
なんかもう、いいかとあきらめていた。お風呂も頂いたし今から代行を手配して帰宅したり、もしくは車を置いてタクシーで帰り後日ここに車を取りに来るのも面倒だ。それにその辺の女とは違って彼女に夜を期待している様子はないし、本当に好意のみで泊まるように促してくれていることはなんとなくわかる。
「降谷さんもコーヒー飲みますか?」
「そうですねえ…じゃあ頂きます。あ、ちょっと呂律回るようになってますね。」
「まあ、コーヒーのおかげで。」
そう言ってキッチンに立つ彼女に、ほぼ無意識に問いかける。
「…前に来たときは男物のシャツがないからコンビニに買いに行かないとって言ってませんでしたっけ。」
本当に無意識だった。言ってしまった後に、これだとまるでほかの男の存在を探ってるみたいじゃないかと気づく。そんなこちらの焦りなどまったく気にしない様子で名前さんは「裕也用に買ったんですよ。」と言った。はいはいなるほど大好きな幼馴染にね、はいはい。
「でも先に降谷さんに貸しちゃったから、それは降谷さん用にしますね。」
「……ありがとうございます。」
苗字名前さん。変な女。
今日は完全に彼女のペースだったなと思う。
結局最後はソファで寝るかベッドで寝るかという話になるわけだが、生意気にも彼女のベッドはクイーンサイズで「裕也もいつも一緒に寝てますよ。」という彼女の発言により本日何度目かの「なんかもうどうでもいい」が発動し、なんと一緒にふかふかのベッドで寝てしまった。
俺は人生で初めて女性と夜を…むしろ同じベッドで時間を過ごし、ただ寝るだけという夜を過ごしたのだった。