09



ふと夜中に目が覚めて、やけに優しい良い匂いがするなと思ったらベッドの感触がいつもと違うことにハッとする。ちらりと隣に目をやれば、自分に背を向けて呑気にすうすう寝息を立てて寝る女性が一人。
ああ、そういえば泊まらせてもらったんだなと思い出す。
隣に人の気配があってこんなに深い眠りについたのはいつぶりだっただろうか。自分は比較的酒が入ると眠りにつきやすい体質らしい。
まだひと眠りできそうだなとそんな感覚と一緒に瞼が重くなるのを感じて、彼女の肩からずり落ちる掛布団をかけなおしまた眠りについた。


次に目を覚ましたのはすでに日が昇っている時間で、なんと自分の携帯のアラームで目を覚ましてしまった。咄嗟に慌ててアラームを切るべくスマホに手を伸ばしたが、なんと隣には名前さんは寝ておらず、隣で人間が起きたにもかかわらず寝こけていた自分にここ数年で一番驚いた。愕然としていると、俺のアラーム音に気づいたのか寝室のドアが遠慮なく開いた。


「あ、降谷さんおはようございます。」

「……おはようございます。」

「ちょうど良かった。そろそろ起こしたほうがいいのかなって悩んでたところだったんです。朝ごはんは食べるタイプですか?」

「すみません、しっかり寝こけてしまって。」

「?いいことじゃないですか。」


きょとんとした表情を向けた彼女は、たいしてどうでもよかったのかそのままリビングへと消えてしまった。名前さんにとってはどうでもいいのかもしれないが、俺にとってはこれは問題視すべき事案だった。潜入捜査中の身でありながら他人の隣で爆睡をかますとは…しっかりしろ降谷零。

今日はポアロのバイトが午後から入っているだけだ。時間には余裕がある。それにしても、名前さんはBarを経営しているのにこんな時間に起きているのか?現在時刻は朝の7時だった。


「早いんですね、名前さん。よく寝れましたか?」

「ぐっすり寝ました。昨日はなんだかすみません、醜態を晒してしまって…。」

「あ、しっかり記憶はあるタイプなんですね?」

「ところどころ寝ぼけているところ以外はだいたい…。」


リビングのテーブルにはベタに目玉焼きとお味噌汁と、昨日も食べさせてもらったお漬物が置かれていた。
いただきますと彼女が唱えるのに倣って、いただきますと手を合わせる。人の作った朝食なんていつぶりだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、先ほどの彼女のセリフを脳内で復唱する。
”寝ぼけているところ以外は”覚えているのか。…昨日のキス未遂のところは、あれはどうなんだろう。完全にこちらから見れば彼女は寝ぼけていたわけだが、あれを覚えているか覚えていないかでわりとこの朝食の味も変わってくるような気がする。


「…ちなみに、どこまで覚えてます?」

「え?」

「昨日のこと。」

「……えっなんですかその聞き方、わたしそんなにやばいことしたんですか?」


げっと口の前に手をやった名前さんを観察する。この表情はどうなんだろう。そしてあれがやばいことなのかどうかは人によって変わるんじゃないだろうか。ちなみに俺はあれをやばいことだとは思っていない。


「寝っ転がったまま水を口に注げと要求してきたりだとか。」

「えええ…本当にすみませんえっなんですかそれ本当ですか?」

「以外とズボラなとこがあるようで安心しましたよ。」

「うわあ〜…」


内心ほっとする。なんだ、覚えていないのか。余裕ができたついでに茶化してやれば、目の前の彼女は引き攣った顔で昨日のことを思い出そうとしているのかその視線は宙を彷徨っていた。
ちょっと仕返しができたような気分で、彼女が作った味噌汁を口に運ぶ。その口当たりがなんとなく市販の顆粒だしではないような気がした。自分も出汁は一気にとって保存して使うタイプの人間であるためその辺はちょっと気になるなあと思いながらなんとなく彼女を見遣れば、ぱちりと視線が交わった瞬間、「あ!」と声をあげまさしく何かに気づきましたよといった様子の名前さんに、首をかしげて見せる。いったい何を――


「じゃああれって口移ししようとしてたんですか?」


ブッと自分の口元から音がした時には遅かった。
飲んでいたお味噌汁を吹き出しそうになってこらえたつもりだったが少し漏れてしまったようで、溢れた味噌汁を慌てて拭う俺を見て名前さんは笑っていた。いや、笑い事じゃない。


「ちょ、名前さん、ふきん…!」

「ああ、すみません。ティッシュのほうが綺麗ですから、はい。」


差し出されたティッシュの箱から2枚取り出す。
名前さんは昨日のお酒を飲んでいるときみたいに上機嫌な顔をした。


「…覚えてたんですか。」

「ぼんやりとだったんですけど、降谷さんの反応を見て確信しました。」

「あなたって本当、鋭いんだか鈍いんだか。カマかけるなんて器用なこともできたんですね。」

「綺麗な口調ですね?」

「僕が?なんですか、唐突に。」


丸めたティッシュのゴミを、ポンと投げるとゴミ箱へと吸い込まれていった。ゴミを投げてしまってから気づく。ここは何度も通った友人の家ではないのだったと。会って間もない女性の家でゴミを投げて捨てるなんて初めてだった。自分が今、安室透なのか降谷零なのか、曖昧だ。
そのままゆっくりと食事をしていた時のように姿勢を戻せば、名前さんは相変わらず穏やかに笑ってこちらを見ていた。


「昨日の”俺”っていう降谷さんのほうが、猫かぶってなくてすきでしたよ、私。」

「僕だって、すやすや眠る名前さんのほうがおとなしくて好きでしたよ。」


わはは、と名前さんが笑った。彼女のことを最初はちょっぴり不愛想かとも思ったが、名前さんは比較的笑い上戸らしかった。自分が心の底から笑えないぶん、目の前で誰かが笑ってくれるとほっとするんだな。いつからこうして何も考えずに笑えなくなったのか。


「降谷さん?」

「…名前さんはよく笑う人なんですね。」

「裕也が笑うの下手くそですから、自然と?」

「はは。」


昨日から、隙あらば名前さんは裕也裕也と口にする。それもそうか、お互いの共通点といえばそこしかないのだ。そう何度も名前を聞けばなんとなく顔を見たくなるもので、せっかく霞が関付近にいるのだから立ち寄ってからポアロに行くかとスケジュールを立てる。昨日登庁したばかりだけれど。


「名前さんは今日はこの後どうするんですか?」

「今日は米花町に友達に会いに行く予定なんです。」


彼女の口から出た米花町というワードに少々驚いてしまったが、それはおそらく表面には出ていないだろう。それより、自分の予定と目的地が被ってしまっているこの状況にどう対策すべきかを考えなければ。いくら警察とはいえ、「僕は普段別人に成りすましているので外で僕の名前は呼ばないでください」とは言えない。取り繕うように麦茶に手を伸ばし中身を飲み干せば、名前さんは減った分を注いでくれた。気が利くな――いやいや、そんなことを思っている場合ではない。
そうか。普段自分が安室として生活している生活圏はここから約30分以上離れているし、わざわざそちらに行かずとも彼女の生活圏のほうが都会なので外で会うことをこれっぽっちも考えていなかったが、言っても30分だ。可能性はゼロではない。


「友達ですか。やはり名前さんは交友の範囲が広いんですね。」

「全国にいっぱいいますからね〜。最近家に籠りっきりだったので体を動かしたくて。公園でサッカーを少々。」

「公園でサッカー。」

「降谷さんもしたいですか?」


その彼女の無邪気な問いに対しては丁重に断りを入れておいた。
…まあ、同じ町とはいえ狭くはない。ばったり鉢合わせする可能性は高くはないだろう。であれば、会ってから対策を考えても十分だろう。
自分にしてはずいぶんと投げやりな判断だったが、これももう慣れてしまった。ここに来てからというもの、もうどれもこれも降谷零としてはガバガバだ。


「まあお酒を飲んで家に籠るよりは外に出て元気にサッカーをするくらいがいいのかもしれないな。」

「そうそう。だから気が向いたら降谷さんも来てね。」

「警察官が勤務中にそんなことできませんよ。」


名前さんは、こちらが砕けた口調で話せば砕けてくれるし、そういった相手に自然と合わせることを自然とやってのける。さすがは自分で店を持つだけあってそういう才能があるんだろうなと思った。
食べ終えた食器をシンクに持っていく俺に、「いい旦那さんになりますよ」と名前さんは言う。食洗器で洗うとのことで、ご飯のお礼に食器を洗うという俺の役目は食洗器に奪われてしまった。
そして着替えるべくシャツを探せば、かけた覚えのないハンガーにかかっているシャツを発見し、しかもそのシャツからは清潔な洗剤のにおいがした。自分で洗濯した覚えはないし、皺のないこのシャツを見るにアイロンがけまで完了している。もちろんアイロンなんてかけた覚えはない。収納されている場所も知らない。


「名前さん、これ…」

「ああ、すみません。やりすぎかなとも思ったんですけど…時間があったので。」

「いやいや、こちらの方こそ気を遣わせてしまってすみません。ありがとうございます。」

「いやでも、洗濯も乾燥もスイッチ一つですから。」


気にしないでくれと言いたいのだろう。頑なに大したことないと言い張る彼女は、素直だと思っていたがちょっと頑固かもしれない。さっきのお返しにと「いい奥さんになりますね。」と言えば、名前さんは何故か困った顔をした。


そんな彼女にお礼を告げ、家を後にする。すっかり酒も抜けていたため、店の前に停めていた自分の車に乗り込む。目的地は昨日も立ち寄った本庁だ。
自分のことは自分でするのが日常で当たり前であったため、なんだかくすぐったかった。それと同時に心が温かい気もする。今日は一日いい日になるような、そんな気がした。この時点では。



「えっ。一緒に寝るなんて、子供のときくらいですよ。」


いい日になるようなそんな気がしていたはずのスタートから落とされた雷の衝撃に、動きが固まってしまう。なんとなしに聞いたのだ。登庁してきた部下に、「お前まだ彼女と一緒に寝てるのか」と。何故かって?彼女がそう言うから昨日は二人で一緒に同じベッドで寝たからだ。もちろんそんなことは目の前の男には言ってない。


「ああ、昨日行ったんですね。店、開いてました?」

「あ、ああ…。開いてた。」

「それでアイツそんなこと降谷さんに言ったんですか?あんまり信用しないでくださいよ。くだらない嘘つく悪戯っ子なんですから。」

「…肝に銘じるよ。」


反応や態度が素直な女性なのですっかり油断していた。案外チョロくないんだなと思いながら目の前に積みあがった書類に手を伸ばすと、終わったと思っていた話の続きなのか「それで、それは?」と部下から声がかかる。それ、と言われたものに身に覚えがないため目の前の男の視線を辿れば、胸ポケットに小さなメモが入っていた。そのメモを開いてみれば書かれていたのは連絡先。綺麗な字で書かれたそれは、十中八九彼女のものだろう。そういえば次に店に行くときのために連絡先を聞こうと思っていたのに忘れていた。


「ああ、連絡先――」


そこまで言ってハッとする。
目の前の男が、じとっとした目でこちらを見ていることに気づいた時には、自分の失言はもう元には戻せない状態だった。


「降谷さん、そういえば昨日と同じスーツですし、シャツまで一緒ですね?」

「なんだ、意外と人の格好をよく見てるんだな?」

「ごまかさないでください、降谷さん!」


このあと過保護な幼馴染に問い詰められたことは言うまでもない。いつも自分には強く出ない風見も、この時ばかりは強気だった。いろいろと面倒になりそうだったので、同じベッドに寝たことは伏せておく。
せっかくスーツだしこのまま本庁に寄ってから安室のセーフティハウスに戻り私服に着替えてポアロに向かおうとズボラな考えを実行してしまったわけだが、詰めが甘かった。彼女にズボラだと指摘している場合ではないな、と内心反省しながら、彼女の連絡先を携帯に登録した。



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