洗面器だけが友達さ

幸せな誕生日から一転して、悪阻が始まったアリーチェは地獄の日々を過ごしていた。
臭いという臭いに吐き気を催しあっさりと吐いてしまう状態で、特にここ3日は一口でもご飯を入れる事ができず、頭痛や目眩に苦しまされ、移動が多い仕事をこなせるはずもなく休みを取っていた。
こんな時に限ってスクアーロは任務で家を開けており、アリーチェは1日中ひたすら吐き気と戦っていた。

「う゛お゛ぉい!アリーチェ!帰ったぞぉ!」

いつも通りのけたたましい声量は今のアリーチェには毒だった。
寝っ転がるのも億劫で寝室の床に洗面器を置いて座り込んでいたアリーチェは気怠げに音源を見た。
彼女のそんな様子にスクアーロは眉を顰めた。

「……アリーチェ、大丈夫かぁ?」

彼は任務前よりも少し痩けて真っ青になっているアリーチェの背中をさすろうとした。
しかし、彼から香るコーヒーの臭いにアリーチェはまた気分が悪くなって手で鼻と口を覆った。
すぐに我慢ができなくなり、胃には胃液さえもうないというのに嘔吐(えず)いた。

「……ゲホッ……ッ……」

スクアーロは背中をさすってくれるが、今のアリーチェにとってはありがた迷惑でしかない。
言葉を選んでそれを伝えたいのに、頭痛と目眩のせいで頭が働かない。

「にお、い………」
「どうしたぁ?」
「服着替えて……シャワー浴びて……コーヒーの臭いが…」
「コーヒーもダメなのかぁ?」

スクアーロは自分の髪を触り匂いを嗅いだがコーヒーの匂いなど全くわからなかった。
だが、任務中に何度か飲んだのは事実のため、悪阻に悩まされている彼女は匂いを感じるのだろうと判断した。

「シャワー浴びてくる。」

頭ではわかっていても心が追いつかないのか、少しだけ不満げな表情で彼は部屋を立ち去る。
アリーチェもこうなるまでは彼のコーヒーの匂いなど気になったことはなかったので、彼の不満が最もであることを理解している。
しかし、今スクアーロの子供のために体調を崩しているのは自分であって彼ではないため、そういう態度を出されることに少しだけ苛立ちを感じた。

しばらくしてスクアーロが寝室へと戻ってきた。

「……飯は食えてるかぁ?」

アリーチェは首を横に振った。
スクアーロはなんだかんだアリーチェのご飯を楽しみにしている節があり、体調が落ち着いていればもしかしたら食べるかもと思って食べて来ていないのだろうと彼女は考えた。

「作るのもきついから、外で食べて来て欲しい。」

彼女は時間を確認せず、そんなことを言う。
彼女の予想通り夕食を食べていなかったスクアーロは内心舌打ちをしたい気分になった。

「…了解」

素っ気なく返事をして彼はキッチンへ向かった。
既に時刻は日付を跨いでおり、日本のように24時間営業のコンビニがある訳でもないこの地のこの時刻で、外で食べる場所などない。
彼が冷蔵庫を開けて食材がないか確認すると、冷凍のシーフードミックスがあった。
そこで夜ご飯はペスカトーレにすることにし、シーフードミックスを流水解凍しながらお湯を沸かしてスパゲッティを茹でる。
玉ねぎを薄切りにニンニクを刻んで、オリーブオイルを敷いたフライパンにそれらと解凍しきれていないシーフードミックスをぶち込む。
細かい段階をしっかり踏まずに適当に作るところ、即ち自分だけが食べる料理にリソースを裂かないところがスクアーロらしい。
キッチンからふわりとニンニクの香ばしい香りとシーフードの匂いが漂った。
スクアーロはいい匂いだと思っていて何も考えていなかったが、寝室まで漂ってきたその臭いにアリーチェは吐きそうになり、洗面器にウェッとろくに中身もない唾液とも胃液とも言えないものを吐いてから、キッチンへ向かった。

「外で食べて来てって言ったでしょ!?」

普段なら絶対にあり得ないアリーチェの物言いに、スクアーロは怒りよりも驚愕が勝って、目を丸くして固まった。
責めた本人はスクアーロに八つ当たりしたことと漂う臭いに二重の意味でまずいと思い、口を抑える。

「ご、ごめん……」

アリーチェは謝るが時既に遅し。

「……この時間に空いてる店なんかねぇだろぉ?任務で疲れて帰って来てるってのによぉ。」

スクアーロは溜め息をついて苛立ちを隠さずに頭をかいた。

「だってしょうがないじゃん!臭いという臭いがきつくて!」
「じゃあオレにどこで食べろって言うんだぁ!」

怒鳴るスクアーロにアリーチェは泣きそうな顔でビクリと肩を震わせる。
スクアーロもまずいと思ったが、時既に遅し。

「……チッ」

スクアーロは舌打ちして財布とキーケースと携帯電話だけ持って、バン!と音を立てて家を出て行った。
アリーチェはその場にずり落ちるように座り込んだが、やはり臭いがきつく、立ち上がって換気のために寝室以外の窓という窓を開けた。
そして寝室に籠ると声を上げて泣いた。

× × × × × × × × × × ×

スクアーロはとりあえず食事を済ますべく、先程出たばかりのヴァリアー本部に戻りキッチンを漁った。
誰の作り置きかは知らないが、ミートソースの作り置きがあったあったので今度こそスクアーロはミートソーススパゲッティを作って食べた。

「(アイツ、臭いが嫌っつってたのに放置してきちまったなぁ……)」

食べながらそんなことを思い出し、少しだけ憂鬱な気分になった彼はさっさと食事を済ませ、ヴァリアー本部を出た。
車に戻ったは良いがどうしても家に帰る気が起きなかった。
アリーチェのことを心配する気持ちはあるが、自分なりに彼女を気遣った行動が空回りすることがどうにも納得できなくて。

「(オレが心配してるって理解してくれたっていいだろうが…)」

そう考えるとやはり家に帰る気にはならず、結局家とは反対方向に目的地もなく車を走らせた。
普段の彼ならとっくに自分が悪い、相手が悪いと割り切ってしまうはずだがそれができなかった。

「(いつまで続くんだよ、あれ……)」

日に日に弱っていくアリーチェを見るのはスクアーロとてきつかった。
アリーチェが最も辛い思いをしていることは彼だって重々承知している。

「(あんな、八つ当たりみてぇな言い方する奴じゃねぇのに……)」

そう思う気持ちも拭えない。

「(アリーチェがわからねぇ……)」

既に9年近い付き合いにはなるが、実際彼女と関わりがあった期間はその内の2年にも満たない。
ヴァリアーの面々よりも付き合いは浅いと言える。

「(……結婚なんか、するんじゃなかったかぁ?いや、せめて子供のことはもっと慎重になるべきだったか?)」

そんな考えが頭を過って、何を考えてるんだと頭を横に振った時、彼は気付けばアリーチェの地元の近くまで来ていることに気付いた。
空は東側が白んできており、なんだかんだ明け方になっていた。
ろくにトイレにも寄らずぶっ続けで4時間半ほど運転していたことに気付き、近くのサービスエリアに寄った。
一旦駐車だけして今更ながらに疲労を感じた彼は少しだけ仮眠を取ることにした。

× × × × × × × × × × ×

一方のアリーチェは気付いたら寝室で眠っていた。
朝起きると例の如く1番酷い吐き気に襲われる。
早速洗面器に吐きながら今日はもともと非番予定の日だったので出勤できない旨を連絡する必要がないことだけは幸いだとどこか他人事のように思った。

「ほんとこれ、いつまで続くの……」

自分はこんなに弱い人間だったろうかと考えて涙が溢れる。
スクアーロに当たってしまったことの後悔が吐き気と共に襲ってくる。
どうして良いかわからないぐちゃぐちゃの思考のまま、アリーチェはまた洗面器を覗き込んだ。

- 27 -

prev | next

back to index
back to top