王族の休憩室として準備された部屋のバルコニーから広場を眺めていたオルタは常温に戻った酒で唇を湿らせた。三日三晩続く宴の初日が終えようとしている。各国から招いた客人は早々に引き上げたようで、広場に残っているのは地元民だけだった。
そろそろ眠るべくグラスを置いたところで、オルタは怪訝に眉を寄せた。男女の声が風に乗って流れてきたのだ。仲睦まじい話し合いなどではなく、荒れていて刺々しい。外ならば放っておいたがここは城である。衛兵に様子を見てくるよう伝えようと足を踏み出したオルタの前に、白い塊がばさりと落ちてきた。
「っ、失礼!夜目が利かず人がいようとは…」
白い布の塊と見間違えたのは異国の礼装に身を包む女だった。爪先から足先まですっぽりと衣服に覆われている。肌を見せるのをよしとしない国もあるので、そういう国の人間なのだろう。決まりや慣習を悪く言うつもりはないが、見ているこちらまで汗ばみそうだった。
夜色の髪と瞳が篝火に照らされてきらきらと煌いている。まるで星屑を砕いて散りばめたようだった。
「どこから降りてきた?」
「あちらの、尖塔から……」
ほっそりとした指先は東の尖塔を指した。人の足では到底届かない距離だ。ということは、この女は魔術師の類なのだろう。
「あの、部屋の場所を尋ねてもいいだろうか」
「星の名は?」
「アルタイル」
「案内しよう。ついてこい」
バルコニーと室内を区切る布を手で除けたオルタは動く気配のない女に焦れて視線を向けた。夜空と見紛った眼がまん丸に見開かれていた。つられてオルタも目を丸くする。どうしたのかと問う前に、はっと息をのんだ女が口を開いた。
「無礼を重ねてすまない。その……、私はまだ性別がないから女扱いされるのに慣れていなくて」
「性別がない?」
「弓の国では王族は成人するまで性別を隠すものなんだ。まあ、成長するにつれて周囲にはバレているが」
広場が遠ざかるにつれ喧騒は遠のき、静寂に包まれていく。女は静けさを震わせてなまえと名乗った。
彼女が突き出した人差し指には青白い炎が灯っており、薄暗い廊下をひっそりと照らしている。オルタが魔術師かと問えば、なまえは隠すそぶりも見せずに頷いてみせた。
「どこに行っていらしたのですか!心配しました……」
「すまない。撒くのに時間がかかった。あぁ、こちらの方はここまで案内してくれた方で……そういえば名前を聞いていなかったな」
宛がわれた部屋に辿りついたなまえを迎えたのは侍女の熱い抱擁だった。嫁入り前の娘が深夜を過ぎても帰ってこなかったのだ。加えて、今夜は祭りで浮ついた連中がそこかしこに溢れている。過剰な心配をするのも無理がない。
早々に踵を返そうとしていたオルタは彼女の声に呼び止められて立ち止まる。
「明日にでも分かる」
振り返ることもなくそう告げて、今度こそオルタは廊下の暗闇に姿を溶け込ませた。
翌日。朝食を部屋で取ったなまえは従者から今日の予定を聞いていた。
「兄君は午後からの式典に参列する予定です。なまえ様は本日は自由に過ごしていいと……いかがなさいます?」
なまえは黙した。故郷の国ではあまり自由が許されていないせいで、いざ選択肢を与えられると回答に困ってしまう。何も考えず兄についていくのが楽だけれど、いつまでも面倒見のいい兄に頼り切るわけにもいくまい。
考えあぐねていると、新たな選択肢が彼女の前に出された。
「オルタ様がお呼びです」
「オルタ……王子か?すまない、心当たりがない」
「昨晩の借りを返していただきたい、と」
昨晩の、と言われてなまえはすぐにぴんと来た。目も眩むような美しい容姿とそれを彩る赤い紋様が脳裏に浮かぶ。なまえは二つ返事で了承し、前を歩く衛兵の広い背中を追った。
城の造りはどこも似たようなものだが、既視感が纏わりつく。どこへ向かっているのか衛兵の背に投げかけても明確な答えは返ってこなかった。会話を続けようとしてもすぐに物切られる。嫌悪されるのとは違うけれど、いささか素っ気なさすぎる。なまえが躍起になって会話のボールを投げ続けようとしていると、衛兵の足がぴたりと止まった。目的地についたらしい。
「あぁ、なるほど」
既視感の正体に納得したなまえはバルコニーでグラスを傾ける男に近寄った。昨日は暗いせいでよく見えなかったが、同じ造りだった気がする。
「昨夜は第三王子相手に無礼を働いたことをどうか許してほしい」
「謝罪が欲しくて呼んだわけじゃねえ」
「では何がお望みで?」
「ヒマだ。話し相手になれ」
つい、と顎の先で隣の椅子を示される。断る理由もなかったので、大人しく曲線の美しい白い椅子に腰を下ろす。眼下の広場ではきらびやかな衣装の女性がスカートに盛った花を天高く舞い上げていた。雲一つない青空に赤や黄の原色が舞うさまは今まで見た光景の中でも群を抜いて綺麗だった。
話し相手を所望したのにオルタは自分から口を開こうとはしなかった。けれど、なまえが見慣れぬものを指さして尋ねれば億劫そうに解説をする。意外と律儀な男だな、と提供された飲み物に口をつけながら思った。
「君は昼間から酒かね」
「この程度酒に分類されるもんじゃねえ」
「ほお」
「……飲んでみるか?」
弓の国での成人は20歳であるが、飲酒が認められるのは18歳からだ。よって、なまえは法的な関門はクリアしている。
普段は親族に止められるため飲む機会のない酒だが、今日は祭りだ。宴だ。小さく頷いたなまえは差し出されたグラスを受け取った。
「あまい」
「果実酒だ」
舌の上に広がった甘味を彼女は気に入ったようだ。返そうとしたグラスを掌で押し留められて、嬉しそうに目元を緩めている。
「しかし、なんだ。君には似合わないな。もっとこう……どぎついものが好みかと思った」
抑揚の少なかった声に色が乗る。上機嫌に、歌うように話すなまえの意識を指先を鳴らして引くと、オルタはその細腕をぐいと引っ張った。降りかかる静止と不平の声を無視して膝に乗せた体の向きを整える。体勢を崩した拍子にグラスの中身をぶちまけたらしく、艶々と輝く前髪からは水滴を滴らせていた。
背もたれからぐっと身を乗り出し、しぱしぱと瞬きを繰り返す彼女の頬をオルタの長い舌が舐め上げる。甘い。砂糖を蜜で溶かしたような甘さが舌を焼いた。
「っ、これは駄目だ。降ろしてくれ」
「……」
「成人するまでは中世的に振舞うよう言いつけられている。だから、その……」
狼狽える彼女は気付いていないのだろう。その言葉がオルタの行動を窘めるものであり、拒絶するものではないことを。薄く開いたオルタの唇から獣の唸り声のような音が鳴る。
背を仰け反らせるなまえとの距離を詰めるように、さらに身を乗り出す。後頭部を掴んで唇を寄せる、はずだった。広場から歓声とは違う悲鳴が響く。
「なまえ!」
「はい、ここに!」
酒が回っているとは思えない反応速度でオルタから離れたなまえは一飛びでバルコニーの手すりに飛び乗った。ふわりと広い裾が膨らむ。
混乱し、右往左往する人の群れからなまえの名前を叫んだのは彼女の兄だった。すでにその手には愛用の黒弓が握られている。
「西から回れるか!私は東からゆく!」
「もちろんですとも!」
兄と揃いの弓を空間から取り出したなまえは跳躍するために身を屈めた。足の周りには目で見えるほどの魔力が漂っている。
「王子、北の門をすぐに降ろすよう手配してくれ」
「おい待て……」
鳥のように白い上着をはたはたと靡かせてなまえは手すりから飛び立った。瞬きの後にはすでに噴水の上に着地している。城壁を、民家の屋根を、白い鳥は自由自在に飛び回る。
オルタは伸ばした手が宙を掴んだことに舌を打つ。元気に飛び回るのはかまわないが、やんちゃすぎるのは考え物だ。風切羽でも切ってしまえば手元に留められるだろうか。ぼんやりと掌を眺めて思案に耽っていたせいで北門の手配が遅れたのは言うまでもない。
結果として、騒ぎの原因はレジスタンスの暴動だった。
「お前らなあ、俺の顔も立てろよ」
「行動が遅すぎるのではないかね。それにそもそも警備が甘いからこのようなことが起きたのだろう」
時期国王のキャスターと兄、エミヤが言い争う傍らで待機したなまえは未だ黒弓を手に周囲を警戒していた。一部を捕らえることはできたけれど、残りを取り逃してしまった。
「なあ」
とんとん、と軽やかに肩を叩かれて振り返ると、鮮やかな青髪の青年が朱槍を手に立っていた。第二王子のランサーである。三つ子ではないらしいが、魂を分けたのではないかと疑うほどアルスターの兄弟は似ていた。
「あんたら本当に兄妹か?」
「……母親の胎が違う。兄は正妃の子で、私は妾の子だ」
「ふうん」
エミヤは母譲りの褐色の肌に、月光のような白銀の髪を持つ。なまえとはまったく正反対の色だ。自分から聞いたくせにランサーはさして興味を持たなかった。たいていは冷ややかな視線か同情を投げかけられるので、少し拍子抜けしてしまう。
呆けているなまえの眼前で朱槍がしなり、ふわりと前髪をかき上げた。きん、と金属の擦れ合う高音が短く響く。
「油断は禁物だぜ、嬢ちゃん」
ランサーが弾き落とした矢を足先で転がして、にんまりと笑う。この状況を心の底から楽しんでいるようだった。
「残党狩りといくかね。あとは任せときな」
「共に行こう。手伝わせてくれ」
「勝手にしな」
地を蹴ったランサーに続いてなまえも飛び立つ。門の上を中継して見張り台の上に降り立った二人はすでに小さくなった後ろ姿に目を細めた。
「馬が欲しいな」
そうぼやいたランサーに向けてなまえは手を差し伸べた。「なんだ」と問うてもなまえは手を伸べ続けるだけである。合点がいかないまま、訝しげな視線をたっぷりと注ぎながらランサーは彼女の手に自分のそれを重ねる。白く細い手は想像に反して、ところどころ固い肉刺ができていた。
手が重なって数秒の後、視界がぐにゃりと歪む。不快さに閉じた瞼を開くと両脚は見張り台の屋根ではなく、大地を踏みしめていた。先ほどまでいた見張り台は遥か遠く、目の前には狼狽えるレジスタンスたち。
「こいつは驚いた……転移したのか」
「魔力の消費は激しいが背に腹は代えられん。補助に回らせてもらうが……」
なまえの言葉を最後まで待つことなく、ランサーが飛び出した。風に聞く猛犬の異名は伊達ではないらしい。
数歩下がって矢をつがえるが、もとよりサポートは不要だったかもしれない。彼女が矢を3本も射る間もなく反乱軍は一人残らず地に伏せていた。砂埃のなかで唯一立っているランサーだけがつまらなさそうに朱槍をくるりと回した。
「帰りはどうする?」
「さすがにもう飛べんぞ」
「んじゃあ迎えを待ちますかね」
どっかりと地に座ったランサーの横に移動しながら白い服についた汚れを手で払う。城に帰ったらまず一番に湯浴みをしたい。着込んだ服の中まで砂が入っているようで、動くたびに不快指数が募っていく。
よくよく見ればランサーも青い礼装のあちらこちらを汚していた。目視したかぎりでは傷は負っていないようだ。けれども白い頬に掠れた赤い線が入っている。浴びた返り血を乱雑に拭ったのだろう。どうせ汚れてしまったのだし構わないだろうと自分に言い聞かせて、なまえはランサーの頬を袖でぐいと拭った。驚いたように赤柘榴が大きくなったが手を払われることはなかった。
「お前さあ、勘違いされること多いだろ」
「……?何に対してだ?」
はあ、と嫌に大きい溜息が落ちる。それ以上ランサーが口を開くことはなく、またなまえが追及することもなかった。
太陽が頂点から傾き始めたころ、ようやく迎えの騎馬隊が砂煙を巻き上げながらやってきた。ランサーは遅いと不平不満を零しながらも颯爽と空き馬に跨る。手綱を握り、どうどうと無意味に馬を宥めていた彼は動く様子を見せないなまえを見下ろして片方の眉を吊り上げた。
「ほら、帰んぞ」
「……」
「お前まさか……ほら、前に乗せてやる。こっちこい」
不自然に視線を反らしたなまえにすべてを察したのだろう。ランサーは呆れながらも馬を歩ませ、手を差し伸べる。先ほどとは真逆の構図が成り立とうとした瞬間、一陣の風と共になまえの体が浮いた。
「オ、ルタ……!」
人攫いよろしくなまえを片腕で抱き上げたオルタは、盛大に砂を浴びたランサーの怒声を背に馬を走らせた。
「ちょっと待て!落ち、落ちる!」
「そらよ」
「うわっ、」
腕をしならせ、やや乱暴になまえを自身の前に座らせたオルタは馬の腹を蹴り、走る速度を上げる。移動手段はもっぱら自前のなまえは恐々と背後の温もりに縋るほかない。
このまま順調に町まで辿り着けるかと思えたがその予想は呆気なく砕かれた。
「ちょっと持ってろ」
「は!?」
ぽい、と擬音が付きそうなほど簡単に投げ渡された手綱を慌ててなまえが握りしめる。慌てる彼女には見向きもせず、オルタはなまえの背をごそごそと弄り始めた。
「ちょっ、何をしている!こら、やめないか!」
「血の匂いがする」
「君は犬か!どうせ返り血かなにかだろう。気にするまでもない」
「ほお」
服を幾重にも着込んでいるなまえは率直にいって油断していた。どうせ服の上から触診するだけでは何も分かるまいと。切りつけられて裂けた服は残った魔力で繕っている。それに、現に彼女が負っている傷はほんのかすり傷にも満たない。魔力さえ回復すればすぐに治るものである。
傷よりも服を優先したのは自尊心ゆえにだった。半端ものとはいえ、彼女とて王族の端くれである。
「いっ……!!」
オルタが不意をつき、手綱を握る右腕を力任せに持ち上げた。魔力で補強し、酷使された筋肉がにぢりと悲鳴を上げる。昨日今日の付き合いだけれど、この男が力の加減というものを知らないことは分かった。
悶絶する彼女をよそにオルタは大きく開いた上着の袖へ手を突っ込んだ。着込んでいるとはいえ、通気性を重視した衣服は風が通りやすいように裾や袖が大振りのデザインをしている。侵入は容易い。
腹を、脇腹を通って背中へと到着したオルタは尖った爪先で傷つけぬよう、慎重に柔肌の上を這いまわった。腕の長さ的に背の中ほどまでしか届かなかったが、指先は目的のものを探り当てる。
「ーっ!」
声にもならぬ叫びとはこのことをいうのだろう。うっすらと涙を浮かべて唇を噛み締めるなまえを見て、オルタは満足げに手を引き抜いた。白い指先には朱が滲んでいる。
「俺は嘘吐きが嫌いだ」
二度目はないと悶える彼女の耳元で囁く。一呼吸置く間もなく繰り出された肘鉄を難なく腹筋で受け止めてやれば「ぐう」と短い唸り声が上がった。魔力が不足している現状では自分に返ってくるダメージの方が大きかったのだろう。
「元気そうでなによりだが、明日に響いても知らんぞ」
「こんな状況で祭りを続けるのか?」
「町につけばわかるだろうが……この国の民は逞しい。この程度で挫けたりはしない」
オルタの言葉どおり、反乱軍の奇襲は祭りを盛り上げるためのスパイスにしかならなかったようだ。祭り衣装に身を包んだ国民たちは英雄の凱旋をもろでを上げて迎え入れた。
「このまま町でも見ていくか」
「せっかくのお誘いだが少し疲れた。夜は会食が入っていたろう?今のうちに部屋で休みたい」
「了解」
薄く微笑んだ横顔に疲労を滲ませていたわりには、馬から降りたなまえの足取りはしっかりしていた。軽く振られた手に頷きを返し、オルタは集う兄弟のもとへと向かった。
なまえは寝台に伏せたことを心の底から後悔した。会食の時間は刻一刻と迫るというのに重力に抗うことができない。
「お前はもう休みなさい」
「……はい」
ドクターストップならぬ兄の言葉に頷いて、なまえは身を起こす努力をやめる。湯上りの体にはひんやりとしたシーツの感触がとても心地いい。窓から吹き込む生ぬるい風も悪くはない。
瞼を閉じて微睡と覚醒の間を漂う。過ぎた時間は一瞬のようにも、一晩のようにも思えた。
「邪魔するぜ」
「……んぁ?」
「あぁ、無理すんな。そのままでいい」
「キャスター、さま?」
長い御髪が揺れるたび、焚きしめた香がふわりと香る。肺の奥に沈むような、落ち着く香りだ。
キャスターは手先だけでなまえの体をひっくり返すと、一言断りを入れてから触診を始めた。魔力の籠った指先が痛んだ筋肉を癒し、正しい形に戻していく。僅かな痛みとむず痒さ、けれどもそれを上回る心地よさがあった。
「度が過ぎた身体強化は負担がでけえだろ」
「それが務めです」
「……そうだな。」
ゆらり。視界が揺れる。穏やかな魔力が気持ちいい。離れていく指先にもっと、と縋りそうになるのを堪えて、なまえは身を起こした。
「出過ぎた真似をいたしましたこと、お許しいただきたい」
「頭を上げよ。此度の働き、この国を治める者として感謝する」
「ありがたく」
太陽はすっかり冥府へと落ち、窓の向こうには薄闇が広がっている。あまり長居をしてはあらぬ噂が立ってしまうだろう。それはキャスターにとっても、なまえにとってもよろしくない。
今夜はいい夢が見れるようにまじないのキスを額に落として、キャスターはなまえの部屋を出た。長く続く廊下の先、明り取り用の窓から見上げた夜空にはすでに星が瞬いていた。