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 意識も覚醒しないうちにあれよあれよと従者たちに連れ去られたなまえは、壁に埋め込まれた見上げるほどの姿見を前に固まっていた。
 白を基調とした服はふんだんにレースがあしらわれていて、少しでも身じろぎをすればあちらこちらが翻る。踝まで届く上着の下にはきちんと下衣を履いているが、いかんせん上が長すぎてワンピースのように見える。否、ワンピースというより、
「花嫁衣裳みたいだ」
 成人を迎えるまでは仕来りで中性に徹する立場にある彼女がなぜ平然と現状を受け入れているのかと問われれば、彼女の隣にまったく同じ格好をしたこの国の第二王子がいるからに他ならない。
「ランサーは何を着ても似合うな」
「どーも」
 従者に導かれるままキャスターの御前へと跪いた二人は、それぞれ白いベールを頭に受けた。これから先、何をすればいいのかなまえは聞かされていない。つい先ほど、昨日の武功を立てて今日はランサーと自分が主役だと告げられたばかりだった。
「嬢ちゃん。三日目の祭りの総称を知ってるか?」
「日ごとに名前があるのですか?」
「おうよ」
 オークの杖を掲げたキャスターがぱちん、と片目を閉じる。
「これより嫁取りの祭を開始する」
「……、よめとり?」
「おう、ぼさっとしてんな。逃げるぞ」
 上がった歓声を聞き終える間もなくランサーに抱えられて民家の屋根に着地したなまえは、説明を求めて揺れる尻尾を引いた。広場ではなまえと似たような、白い服に身を包んだ若い女性たちが踊るように人の間を走り抜けて四方に散り始めている。
「あー……昔の伝承がもとになった祭りだ。つってもホンモノみてえに物騒じゃねえがな。嫁役は逃げる、その他は嫁役を捕まえる。以上だ」
「捕まった場合はどうなる?」
「どうもならんさ。そこから芽生えるものもあれば、楽しかったで終わるものもある。ま、昼過ぎくらいまで逃げて適当に捕まれば上々……うわっ!!!」
「ランサー!?」
 ぱらぱらと砕けた瓦礫が屋根を転がる音がする。つい今しがたまでランサーが立っていた場所には紅の槍が深々と突き刺さっていた。ぐぐ、と震えたかと見紛った瞬間、ひとりでに抜けた槍が軌跡を描きながら主人のもとへと戻る。
 落とした視線の先には第二投を構えるオルタの姿があった。穂先は顔を引くつかせて身構えるランサーをしっかりと捉えている。
「おーこわ。そんじゃまた後でな」
 ベールを取られたら捕まったことになるからな、と最後に言い残してランサーは教会の方へ行ってしまった。観衆は、とくに若い女性はそんな彼の姿を追って我先にと駆け出す。中には盛大に転ぶものもいるが、その表情はとても楽しそうだ。きらきらと輝いている。
 とん、と音がして振り返ると、未だ槍を手にしたオルタが屋根に上がってきていた。
「キャスターとエミヤの許可は得た」
「ん……?」
 歩み寄ると表現するより、にじり寄ると言った方が適切だろうか。じりじりと境界線を推し量るように近寄ってくるオルタに気圧されて、なまえは彼が進む以上のペースで後ずさる。
「全力で逃げろ」
「んん!?」
「捕らえたら、そのときは俺の頼みを聞いてもらう」
 にたりと上がった口角に嫌な予感がして、オルタの言葉を聞き終える前になまえは飛び立った。砂煙を上げながら城壁に移動した彼女はすんでのところに迫った手から逃れるために着地の勢いのまま背後に転がった。体勢を整える間もなく、距離を稼ぐためにさらに後方に飛ぶ。
 落下するさながら、視線を動かして次の移動場所を探す。しかし、オルタの動きはなまえの想像を超えていた。
「もう終いか?」
「っ、まさか!」
 一気に詰められた距離を離すため、なまえは遠く離れた鐘楼へと転移した。物理的な移動ではなく、空間を捻じ曲げての移動になるのでさすがのオルタも対処できなかったらしい。目標を見失って動きが止まった一瞬の隙を夜色の眼が捕捉する。魔力を練って作り上げたのは普段使用する黒弓ではなく、儀式用の細身の弓だ。強度も威力も低いけれど、今回は傷つけることが目的ではない。
 呼吸を止め、赤く染色した鳥の羽がついた矢を番える。狙うは心臓、の真裏。放った矢は風を切り、まっすぐ標的へと向かっていく。目標までの距離、メートルにして30、10、5、……
「上等だ」
「えっ」
 矢が当たる寸前でオルタが身を捩ったため、右腕を掠めるに留めた。しかし、なまえが驚いたのは矢を避けられたことに対してではない。あの矢には対キメラ用の痺れ薬がたっぷりと塗布してあったのだ。成人男性とて半日は身動きが取れなくなる代物であるにもかかわらず、彼が倒れる様子はない。
 ゆらり、と並々ならぬオーラを纏って足を踏み出したオルタの周囲にノイズが走る。ジジ、ジジジ。それは彼が歩むたびに大きく揺れる。
「武装展開……さあ、準備運動はここまでだ」
 足元に広がった魔法陣がパキンと音を立てて砕け散る。鮮やかな閃光の合間から現れたオルタは濃紺の祭服ではなく、禍々しい武装を身に纏っていた。獣の骨を組み合わせたような鎧に、闇を広げた外套。尾*からは刺々しい尾まで生えている。
 先に手を出したのは自分とはいえ、それは無しだろうと言いかけた口を噤んだ。


 広場に設けられた観客席に肘をついたキャスターは眼下で繰り広げられる戯れをつまらなそうに眺めていた。
「あー俺も混ざりてえな」
「君まで参加したら収集がつかなくなるだろう……おや?」
「失礼します!!!」
 息を切らしたなまえがトップスピードを緩めることなく長机の下に滑り込む。衣装が汚れることをすでに諦めた者の動きだ。
「この祭りはどこまでが"有り"なのですか!」
 テーブルクロスから顔を覗かせたなまえが息を潜めながらキャスターに詰め寄る。夜色の眼は始終忙しなく周囲の様子をうかがっていた。黒い獣の姿はまだ見えない。大衆の中を駆け抜けたのが功をなしたのだろう。魔力による瞬間的な強化ではなく地の体力を使っての移動は負担も大きかったが、成功といえよう。
「お、まだ逃げきれてんのか。タイムリミットは日没までだ。その調子で頑張んな!」
「魔力が持ちません……せめて矢が当たれば足止めくらいはできるのですが」
「矢か……相性が悪いな。俺たちは加護を受けてるからなあ」