一目見た瞬間、これが運命だと確信した。
兄であるキャスターに呼びつけられたオルタは彼の屋敷でなまえを目に留めた瞬間、その華奢な体を無意識のうちに押さえつけていた。もちろん無意識の行動だったので力加減などできるはずもなく、なまえは盛大に頭を地面に打ち付けられた。ぐらぐらと揺れる頭を抱える間もなく、しなやかな背中にオルタの体が圧し掛かる。
「っ、の……!」
なまえはかろうじて指先を動かしてルーンを刻む。瞬間、小規模な爆発音が響く。飛び散った床の断片が舞い上がり、ぱらりぱらりと音を立てて落ちていった。
正常をかなぐり捨てていたオルタに避ける選択肢はなく、左半身にもろに爆発を受けていた。赤い絨毯に濃いシミが雨のように降り注ぐ。それでも彼女を押さえつける腕の力は弱まらない。
シャツの襟元を引き下げ、白い項に顔を近づける。今までに嗅いだオメガのフェロモンとはどこか異なる匂いに指先があまく痺れる。溢れる唾液を舌に乗せ、塗りつけるように項を舐めると、なまえは髪を振り乱して暴れた。
「や、め…やめて!離して!」
必死に泣き叫ぶ声のなんと心地いいことか。早く項を噛みたい気持ちと、もっとこの声を聴いていたい気持ちが交差する。
「きゃす、きゃすたあ!きゃす、…いっ!!」
がぶりと。擬音が付きそうなほどぱっかり口を開き、一思いに噛みついた。がむしゃらに暴れていた指先が視界の端できゅっと丸くなる。
オメガの項にアルファが噛みつくことで番が成立する。けれどオルタの心を満たすものはなく。焦燥に駆られて何度もそこに歯型をつける。染み出る血液が興奮を煽った。
「オルタ!」
名前を叫ばれると同時に強かに頬を拳で殴りつけられ、オルタの体が壁に打ち付けられる。いくら筋力差があろうとも、ルーンで爆発的に高められた一撃は重いものだった。
「おい大丈夫……じゃねえよな。あんま動くな、じっとしてろ。オルタ、てめえはそこから動くなよ」
キャスターはなまえを別室へと連れていき、手際よく治療を施した。首の後ろには哀れなほど歯型が浮かんでいたので、ガーゼを巻いた上から黒革のベルトをゆるく巻いてやる。
すん、と鼻を鳴らして匂いを確かめる。消毒の匂いに混じるものはない。結論の周りを意図的にぐるぐると彷徨いながらキャスターは薬瓶を持ってオルタのもとへと向かった。
「ちったあ落ち着いたか?」
動くなとの言葉を守ってか、否か。おそらく後者だろうが。オルタは壁に背を預け、地面に座ったままそこにいた。声に反応して輝きの鈍い眼がキャスターを映す。
「気休めだ。飲んどけ」
「……無意味だ」
投げ渡された遮光性の瓶のラベルを見て、オルタは鼻で笑った。
「オメガのフェロモンに惹かれたわけじゃない。それくらい、これまでも制御してきた」
「だろうな。俺は何も感じなかった。それになまえはまだヒートを迎えてない」
「……」
「薬で抑えつけてるわけでもねえんだが……なんでだろうなあ。来ねえんだわ」
唇についたままの血液を舌で舐めとると耐え難い衝動に体を蝕まれる。乾いた砂原でたった一滴の水を求めてさ迷い歩いている気分だ。
「会わせろ」
オルタは立ち上がり、兄の背後に聳える扉目掛けて足を踏み出す。キャスターはいやににっこりと笑みを作った。
「日を改めろ」
青筋を立てたキャスターがオルタの肩に手を置く。ぐにゃりと空間が歪んだ。次に目を開けたときには、オルタは見知らぬ森の中に一人で立っていた。
常の無表情を浮かべたまま、彼はそっと自分の胸に手を置いた。鼓動は未だに鳴り響き、あれが運命だと騒ぎ立てている。
* * *
あれからオルタは度々兄の屋敷を訪れた。けれどもなまえに会えることは一度としてなかった。
彼女の、正式にはキャスターのもとへと通うこと丸ひと月。オルタはとうとうキャスターに問うた。
「何故出てこない」
「ふつーに怖いからだろ、そりゃ」
毎日一輪ずつ送った花はとうとう大きな花束となり、食卓を飾るテーブルに活けられている。最初の一凛は花弁の縁が黒ずんできているものの、未だその美しさを保っている。
遮る扉一枚なぞオルタにとっては紙切れに等しい。それでも力任せに蹴破ることをしないのは、これを境界線と捉えているからだった。強硬手段で突破したとて、このラインは必ず付き纏う。正攻法で突破するしかないのだが、その方法が彼にはさっぱり分からなかった。
「仮になまえが出てきたとして、耐えられる自信はあんのか?」
キャスターの問いにオルタは沈黙で答えた。ひくり、とキャスターの口の端がひきつる。
「お前なあ……」
「匂いのするものを寄越せ」
匂いに慣れれば多少は制御できるはずだとオルタは伸べて、ずいと手を差し出した。キャスターは自分本位な掌を焼いてやりたい衝撃に駆られたが、思い留める。”あの”オルタの思考にしては及第点ではないか。
一度奥に引っ込んだキャスターは白い布切れを持って姿を現した。渡されたそれの、両肩に位置するであろう部分を摘んで持ち上げる。シンプルな、けれども丁寧な刺繍の入った白いシャツだ。
「変なことには使うなよ」
「変……?」
「あぁ、いい。気にすんな」
「明日からしばらく来れん」