言葉がひとつしかないとしたら
「案ずるな、小僧。お前の大切な女も、後数年たったら嫌でも目覚めるさ。1人の女に術をかけ続けるのもしんどいしな。いくら稀血の中でも一番といっていいほど濃くて希少だとしても、賞味期限が切れた女はいらねぇんだよ」
「分かるか? この意味。お前が俺を斬らなかったらいいってこと。他の奴は全て見殺しにしてな!」不快な笑いが体の隅々までに響き渡る。ふざけんな。喋るな。そう思っても、刀を振れない。稀血ばっかり食べているとしても、相手は十二鬼月でも何でもない。すぐに斬れる相手なのに。でも、振れない。振ることが、意味することが嫌でも分かってしまうから。
御館様、俺は柱として未熟者のようです。だって、俺は、決断ができないんだ。やらなければいけないことも、その責任の重さも、全て分かっているのに。憔悴しきった町の人の顔が浮かぶ。ここで俺がこの鬼を逃したら、また新たな犠牲者が出る。何人もの罪のない人が、その日常を無慈悲に奪われる。僕が、あの日、兄を失った日のように。そんなこと、あってはいけない。それを防がなくてはいけない。分かっている。分かっているんだ、本当は。
でも、名前は、俺にとって何よりも大事な人なんだ。それこそ自分の命よりも遥かに。今この鬼を野放しにしたら、それだけで、放っておいてもいつか必ず目覚めてくれる。何で天秤の相手がよりによって名前なんだ。俺だったらよかった。俺だったら、考える間もなく、すぐに自分の命を差し出したのに。何で、彼女だけ、こんな目に遭わないといけないんだ。両親がそばに居る時が少なくて、ずっと寂しい思いをして、それでもずっと我慢してきたんだ。我慢して、我慢して、そうしていたら唐突に両親も奪われて。それだけじゃなくて、絶望の中で、無理矢理意識も奪われて。それで最後はその命さえこの鬼――違う、俺だ。俺に、握られてしまっている。ああ、頭がかち割れそうだ。これは、何だろう、怒りよりもっとドス黒いもの。絶望、というのか。
「あなたは隊士なんですよ。間違った選択をしないように」胡蝶さんがどこか寂しそうに言ったのは、何でだろう。この結末を予想していた? 嫌、違う。多分、俺がこの戦いのためなら自分はどうなっても構わないと思っていることに、気づいていたからだ。自分なんて、本当にいいのに。なのに、なのに、現実は、全ての報いは1人の少女に降りかかるのだ。ああ、俺は、どうすれば―――。
「簡単な話だろう。知らねぇ奴が何人喰われてもいいじゃねぇか。大事な女さえ生きていればいいじゃねぇか」
「…………」
「刀を捨てな。そうしたら俺はこの場から去る。お前は他の連中に嘘でも言っときな。"鬼は僕が倒しました、もうこの土地に鬼はいません"ってなぁ!ハハハハ、天下の鬼狩り様が笑えるぜ」
鬼はずっと俺を挑発してくるかのようにその濁った瞳を向けてくる。ああ、斬ってしまいたい。木端微塵にして、この世に生まれてきたこと、鬼として生まれ変わったこと、全て後悔させてやりたい。もう二度と、生まれたいだなんて、そんな間違ったことを思わないように。
けれど、俺には、出来ない。
頭の中が、不意に何も考えられなくなった。刀を持つ手から力が抜けていく。もう、考えるのも億劫だった。柱としての尊厳も、何もかも消えてしまったようだった。すみません、御館様。俺は、最低な奴です。何よりも大事なものを、手放すことが、できないんです。炭治郎、君はどんな顔をするかな? 絶望をするかな。悲しそうな顔をするかな。まあ、もう、全部どうでもいいか――。
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「無一郎くん、」
「ありがとう。でも、もういいんだよ」
「誇りを持って。やるべきことは、分かっているでしょう? 迷わないで、お願い」
「ずっと守ってくれて、こんなに想ってくれて、ありがとう。わたし、幸せだよ」
「でも。でも、もういいんだよ」
声が、聞こえた。一瞬で何もかもなくなってしまった俺の世界に、暖かく響いた。優しい、愛おしい声だ。涙が溢れる。込み上げてくる。これは、誰の声だ? ひたすらに暖かい。誰の? ――そんなの、1人しかいないじゃないか。
「大好きだよ、無一郎くん。ずっと、ずうっと」
そんなの、俺だって、同じなんだよ。
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―――。
――。
―。
「…………何が起きた?」
「………」
その鬼は何もかもが理解できなかった。確かに目の前の鬼狩りの少年は、刀を手から離したはずだ。そうだそうだ、とほくそ笑んだ。俺を殺すなんて、出来るわけないんだよ。万が一のために今際の呪いをかけといてよかった。これでまた稀血を食べれる。強くなれる。そう思っていた。けれど、視界が変わった。景色が上下逆さまになっている。なんで、どうして。首に熱さを感じたと思ったら、刹那、感覚が一瞬でなくなった。鬼の首は、確かに落ちている。
(……斬られたのか? 俺が……俺が?! 斬られた?! アイツに?! なんでなんでなんで―――)
理解ができないまま、消えていく鬼の身体。それほどに迷いのない、太刀筋であった。
「………お前はもう、永遠に生まれてこなくていいから。お前が生まれてきた瞬間、俺が斬る。何度でも、お前を殺してやるから。その何にも役に立たない脳みそに刻んどいて。忘れるなよ」
「な……なんでだよ?! 何で俺を斬った?! お前、あの女はどうでもいいのか?!?」
「……………違うよ。でも、」
俺は柱だから。君だけだと思っていた。けれど、守りたいもの、守らないといけないものが、増えてしまったんだ。「ありがとうございます、ありがとうございます」そう言ってくれた町長を、みんなを、見捨てるなんてできない。そして、そんな自分に、誇りも持っているんだ。だから、ごめん。本当にごめんね。
「……お前に言うことじゃないから、とっとと消えろ」
くそ、くそとボヤきながら塵ように消えたその姿に何も思うことは無い。ただ、果てしない喪失感だけがそこにはあった。
名前。僕のこと、どこかから見ていたのかな。なかなか決断できなくてごめん。本当にごめんね、ありがとう。大事なもの、見失っていた。思い出させてくれてありがとう。背中を押してくれて、ありがとう。守れなくて、救えなくて、ごめん、ごめん………。朝日が登り始めた東の空を眺める。頬に、雫が静かに落ちた。