この世界が輝くとするならば
町を出てから、どれくらい歩いただろう。お屋敷にはあと半日もあれば着くだろう。本当はもっと早く着くことが出来たけど、肉体的と言うよりは精神的な疲れからか足が前に進まなかった。いや、進みたくないと本能が訴えたからかもしれない。お屋敷に着けば、嫌でも現実を突きつけられるから。鬼の話通りなら、あの鬼が死滅したときに名前も息を引き取ったのだろう。鎹鴉に様子を見に行かせようとも考えたけれど、できなかった。柱になっても、結局は臆病者のままなのかもしれない。僕は1番大切な人の最期の瞬間にさえ寄り添うことが出来なかった。名前を死なせる――最終的な判断を下したのは、紛れもないこの僕だ。選択したのは、たくさんの民の命。その判断に、間違いはなかったと思う。後悔もしていない。もしも違う選択をしていたら、御館様にも、名前にも、合わせる顔がなかった。多分彼女は怒った。泣いたかもしれない。あの時僕を導いてくれたのは、紛れもない名前だった。だからこそ、あそこで刃を振るうことに、なんの躊躇いもなかった。ごめんね、ずっと眠っていたのに、結局起きることも無いまま死なせてしまって。でも、もう苦しくはないよね? 名前はきっと笑って「いいんだよ。ありがとう」と言うのだろう。分かっていた。分かったからこそ、泣いた。ただただ、悲しみが胸のど真ん中に残り、消えることは無かった。
彼女に抱いていたのは、恋情だけでない。守らないという使命感も、ずっと一緒にいたいという願望も、全部、彼女だからこそ持てたものだ。いつしかそれが切っても切り離せないものに変わって行ったのだと思う。言うならば、彼女は僕にとっての酸素だ。なくてはならない、そんな存在だ。けれど現実は、厳しい。もう名前はどこにもいない。どこにもいない世界で、僕はこれからも生きていかないといけない。柱だから。霞柱・時透無一郎だから。鬼を根絶やしにするために、平和な世界を手に入れるために。そうやって日常は流れ、地球は回る。世界はこれからも動いていく。名前という存在を失ったままで。
「ねえ兄さん、僕が守れない分は、ちゃんと兄さんが名前のこと守ってよね……」
呟いた言葉はサラリと風に流れた。本当はとてもやさしい兄さんのことだ。「仕方ないなあ」って言いながら本を読んであげているだろう。視界が滲む。流しても、流しきれない想いがあることを知った。
それからしばらく歩いていると、頭上から見知った鳴き声が聞こえた。カーカーと鎹鴉が伝令を伝えに来る。新しい任務か。この近くなのか。……そうだ、こうして僕が悲しんでいる間にも、鬼に襲われている人はたくさんいる。日常を奪われた人も、奪われかけている人も、数え切れないほどいる。救うんだ、鬼殺隊として。誇りを持って。止まっている場合ではないんだ。涙を拭い、前を向く。けれど、その鎹鴉は伝令を伝えるわけではなかった。
……ていうか、この鴉、よく見たら炭治郎のじゃないか?
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時透くんが戻ってくるまで、後どれくらいなのだろうか。鎹鴉を放ったのがええと何時だっただろう………。早く、帰ってきて欲しい。時透くんのお屋敷の門の前に禰豆子と2人で立つ。禰豆子も俺も、汗が止まらなかった。だって、だって、名前さんが…。このことを、時透くんは知っているのだろうか。
「炭治郎!!!!!」
「あっ! 時透くん!」
南の方角から土煙を撒き散らしながら時透くんが帰ってきた。あれ、瞬きする前は仄かな匂いと共に遠くに頭が見えただけだったのに、次の瞬間は目の前にいるんだけど。相変わらず速い。さすが柱だなあ………。そう一人で関心していると、時透くんがガッと俺の肩を掴んだ。息を整える暇もなく、珍しく動揺した様子で。「名前、名前は?!」
「っそうだ! 名前さんが……」
俺がそう言いかけた時には、もう時透くんはいなかった。お屋敷の中に入って行ったのだろうか。突如いなくなった人影に、俺も禰豆子も目が点になる。そうして、慌てて追いかけた。
「………名前!!」
時透くんが駆け込んだのは、名前さんがずうっと寝ていた部屋。その部屋の真ん中で、時透くんは泣いていた。「うそだ、うそだ」柄にもなく、声を上げて、ボロボロと涙を零して。
その両方の腕が、起きたばかりの名前さんを、しっかりと抱きしめていた。
「……む、いちろ………く」
「ごめんっ、ごめん……! 本当にごめん……! ごめん………!」
時透くんが余りにも謝るから、起きたばかりの名前さんも、俺とおんなじくらい困惑している様子だった。声も上手く出せないし、体も思うように動かせないらしく、時透くんをぎゅうっと抱きしめ返すこともできていない。それでも必死にその手を、肩に顔を埋めて泣く時透くんに伸ばそうとしていた。時透くんが帰ってくる少し前に急に目覚めた名前さんは、起きた瞬間にまず泣いた。ここが時透くんのお屋敷だということ、時透くんが鬼殺隊に入っていること、その中でも最も偉大な柱として活躍していること、少し話しただけだったけど、名前さんはコクコクと涙の途中に頷いてくれた。時透くんが守ってくれたんだよ、そう伝えると更に泣いてしまい、申し訳なかったと思ったのはついさっきのこと。だからこそ、困惑しているのだろう。――なんでそんなに謝るの。聞いたよ、守ってくれたんだよね。ありがとう――。そう時透くんに伝えるかのように、名前さんは小さな手で懸命に時透くんの背中を撫でていた。
時透くんがあそこまで泣き、ひたすら謝り続けた。その理由は後日、本人から全て聞けた。俺はその話を聞いて、ありえないことが起きたとすごくびっくりした。それと同時に涙が止まらなかった。時透くんは「なんで炭治郎が泣くのさ」って少し戸惑っていたけれど、そんなの、泣くに決まっているよ。時透くんはすごい苦しい思いをしたに違いない。身がちぎれるような苦しい決断をした。時透くんの願いだったとはいえ、後悔した。一人で行かせてしまってごめんな。仲間なのに、一人で戦わせてしまってごめんな。
名前さんは今日も生きている。まだ布団からは出られないけれど、目を開けて、俺たちに笑いかけてくれる。枕元に座る時透くんに、甘えるように寄り添っている。ほんとうに奇跡だ。そうとしか言い様がない。この奇跡が起きたのは、他ならない、時透くんが名前さんを守ってくれたからなんだよ。