ひとりぼっちの夜から 前編


目が覚めたばかりの名前は、見慣れない土地と人、生活など、戸惑いが心の大多数を占めていた。だから、しばらくはそれらに気を取られ、忘れていたのだろう。あの時自分の周りで起きたこと、全てを。
伝えなければいけなかった。なぜ僕が鬼殺隊に入ったのか。なぜ名前は3年間も眠っていたのか。自分の置かれた今の現状を、ちゃんと。
しばらくして、色々と落ち着いてから。名前が受け止められると判断してから。ゆっくり伝えていけばいい。僕はそう思っていた。







夜、そっと襖を開ける。目の前には穏やかな寝息を立てる名前の姿。枕元に座り、その寝顔を見つめる。彼女が目覚めるまで毎日のようにしていたこの習慣は、起きてからもずっと続いていた。どうにも不安が拭えなかった。もう鬼は倒したのに。名前がこのまま目覚めず、また長い長い眠りについてしまったらどうしよう。朝日が昇っても、僕が声をかけても、反応しなくなったどうしよう。それよりももっと最悪で、もしも息の根が止まってしまったら――? 可能性は限りなく薄いのも分かっている。僕の不安とは裏腹に彼女は昨日も一昨日もその前も、朝になったら目覚めてくれた。だけど、明日は? 分かっているのに、不安が心の底にへばりついて離れなかった。気配には敏感だから、何かあってもすぐに目覚められる。隊士になってから、何かあった時のために浅い眠りにつくのが習慣となっていた。そうして僕は、名前に内緒で、夜の間ここにずっといる。

可笑しい、と思ったのは、名前が目覚めてから1週間と少し経った頃。夜になり、消灯をしてからしばらくして、いつものように枕元に座りながらコクコクと船を漕いでいた時。どこからか、音が聞こえた。

「………ん、んー……」

小さく唸り声をあげていたのは、もちろん一人しかいない。「名前……?」眉を寄せて険しい表情をしているのを見て、目を丸くした。
どうしたのだろうか、寝苦しいのだろうか。少し、窓でも開けてみようか。そう思いながら名前の髪の毛をサラリと撫でる。少し汗ばんでいるようだ。もう少し様子を見ようと思っていたら、そこからの異変は早かった。

「いや……やめ……て………」

はっきりと聞こえた言葉。やだ? 名前の目からはキラリと涙が零れていた。悪い夢でも、怖い夢でも、見ているのだろうか。どちらにしても悪夢を見ているのなら、一度起こした方がいいのかな、そう思って名前の肩を叩こうとした、その瞬間だった。

「う………や、やだ……っ」
「名前……起きて?」
「…………」
「名前」
「や、っ、…………やめて……! っ、やだあっ!!!!!」
「?!」

叫び声が聞こえた。そう思った瞬間、名前はガバッと起き上がり、突然布団から抜け出したのだ。まだ体力も戻っていないのに、その動きは想定できなかった。いきなりの言葉に僕は言葉を失う。何があったんだ。

「――っ、やだ、やだ、やだあっ!!!!」
「名前?!」
「やだ!! 来ないで! いやだっ!」

布団から出て、部屋の隅っこまで這いつくばっていく。そこで頭を抱えて蹲った。行き止まりなのに、それでも逃げようとしているのか、壁にドンドンと自分の体をぶつけようとする。「! やめろ!」僕が声をかけると、ひどく怯えた。どうしようもできなくて、嫌だ、嫌だと暴れる名前を押さえ込もうと後ろから抱きしめる。

「いやだーっ!!! 離して、お願い、やだ、来ないでっやめて!」
「名前! 落ち着いて!!」
「離してっ離してよおっ!!!!」

俺のことが、分からなくなっている。混乱して、興奮しきっている。全力で逃げようとするその体をぎゅうっと抱きしめる。力は全然ないから押さえられるけれど、それでも驚きが止まらなかった。なんで、一体どうしたんだ。

「やだ、やだ、やだ……」
「名前! 僕だ、無一郎だ!」
「離してぇ………っ」
「どうしたんだよ?!」

なけなしの体力をめいいっぱい使ったからか、力が抜けていくのも早かった。くた……とした様子の名前は眠りからは覚めているようだ。けれど、体が怯えている。震えも、動悸もずっと止まらない。なんで、本当に、何があったんだ。

「………ないでっ」
「え?」
「………………食べ、ないでぇ…………」

瞬間、全てを理解した。カタカタと震えているその様子を見て、全てが分かった。

――名前が見ていたのは、悪夢じゃない。記憶だ。

「おとう、さん…………お、か、あさ………」弱々しく、涙でグシャグシャになった顔でそう呟く。ぐったりと僕に身を委ねた様子は、まるで、あの日の名前そのもののように感じた。全てを諦めた表情。あの鬼が言っていた、"絶望"の表情。こんな顔だったのか。

名前はあの日、絶望しかないまま、一度全てがなくなったのだ。絶望をしたまま、全てが終わっていたのだ。

「………うわぁぁっ!!」まるで幼子のように、大声を上げて泣き叫ぶ。その姿を見ても、僕はただただ抱きしめることしかできなかった。名前が消えちゃいそうで、怖くて仕方なかった。ぎゅうっと強く強く抱きしめる。温かい。この温度のために、俺は生きているんだ。絶対に、失いたくない。
名前が起きて、俺はまた進むことができた。何もかもが元に戻ったと思っていた。けれど名前は、あの夜からおいてけぼりになったままなんだ。今まで名前が落ち着いているように見えたのも、戸惑いがまず初めに大きかったから、というだけ。忘れていた。きっと、名前も僕も。

落ち着いてから、ゆっくり話していけばいい。そう思っていた。けれど、それじゃあ遅い。永遠に名前の世界は、あの夜のままだ。暗闇のままだ。きちんと、全部話さないといけない。夜が、本当の意味で明けるために。





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