ひとりぼっちの夜から 後編
無造作に伸びた草を掻き分け、目指していく先に僕たちの家はある。万が一草でかぶれたり切れたりされたら嫌なので、慎重に抱き上げる腕に力をこめた。人がいなくなったら、こうなってしまうのだ。時の流れを感じる。あの時から随分と変わってしまったこの場所に、寂しさを感じないわけではない。
「………」
名前は僕の腕の中から、ただ黙って辺りの景色を見ていた。戸惑っているのだろう。名前にとっては、ほんの1週間とちょっとの間しか経っていない。空白の期間が長すぎて、その変わりようを受け止めるだけの範疇は、とうに超えているに違いない。それでも、現実はこれなのだ。
名前の家の周りには、綺麗な花が咲いていた。商人をしていた両親が、よく花の種をお礼としてもらっていたらしい。それをみんなで育てているんだよ、とキラキラした笑顔で言われたのも覚えている。ほとんどは苗字家が僕の家に来ることが多かったけれど、何回か苗字家にも行ったことがあった。「みて、みて!」と色んなところに連れ回されたのを覚えている。僕と、名前、そして兄さんと―――。
けれど。
「……………」
「……着いたよ」
もう、現実は違うのだ。
雑草が伸び切った家の周り。花の跡など何一つ残っていない玄関先。荒れた家。誰もいない、その場所。
あの日から3年以上経った。手入れがされていないそこの有様は、一言で言うと、酷かった。鬼が現れたあの日、一組の家族は、時を止められたのだ。
「……………」
名前は、何も言わなかった。いや、言葉が出なかったのだろう。ただただ目を見開いて、その様子を見ていた。嘘だ、そんな気持ちを物語っているその瞳。大きく大きく見開かれたそれからは、ただただ困惑の色がした。
「…………む、いちろう、くん…」
「何?」
「………………おとうさんとおかあさん………どこ?」
静かに零れたと思った涙は、次の瞬間に箍が外れたように流れていった。涙を流していることにさえ気がついていないようだった。ひたすら、震える声で「どこ、どこ、どこ」と呟く。
その言葉に、僕は黙って家の中に入っていく。二人分の体重を乗せただけで、今にも壊れそうだった。荒れ果てているのは、家内も同じだった。居間に入った瞬間に、その体の震えは一層強くなった。だから、全て分かってしまった。ああ、そうか。ここで。この居間で、名前の両親は―――。
「ぁ……………あ、あ…………」
ゆっくりとその場所に名前を降ろすと、呆然とした様子で座り込んだ。きっと、あの日の光景をそのまま見ているのだ。恐怖、怒り、歯がゆさ、また恐怖。まだ歩けないので、ずるずると這いつくばりながら、居間の真ん中に行こうとする。「お願い、食べないで、やだ、やめて」震える唇から漏れる声。あの日、全てを失った日。名前はこんな表情をしていたのだ。それは、昨日の夜の表情と同じだった。
「やだ、やだ、やだぁぁっ!!!」
叫び声をあげて、必死に手を伸ばしていた。その先には、恐らく名前の両親がいたのだろう。ボロボロと零れる涙は、まるで水溜まりを作りそうな勢いだった。手を伸ばした先は、もちろん何も無い。力なく、落とされるその指先。恐怖で染まるその顔。鬼に聞いたから全て知っている。両親を食べたその鬼が、次はお前の番だとゆっくりと名前に近づいていく。怖かったに違いない。けれど、次にくるのは、それを遥かに凌ぐ感情。次の瞬間に埋め尽くされる、その感情。
――「絶望しきった目でなあ、俺を見るのさ。近づくと血にまみれた俺の口元を見て呟いていたよ。おとうさん、おかあさんって」――
(……………させない)
「名前、」
「………」
涙で濡れた頬を、両手で包み込む。その瞳に、もう、絶望は映させない。僕が、もう二度と映させない。「………む、いちろ………く…………?」弱々しい声。うん、そうだよ。今目の前にいるのは、血に濡れた鬼じゃない。お前を傷つける鬼じゃない。俺だ。その瞳に映っているのは、僕なのだ。それをしっかり分かってもらいたくて、グッと両手に力をこめ、顔を近づける。鼻と鼻がくっつくような距離。この距離だとよく分かるんだ。怖かったよね、辛かったよね、本当に、本当に、苦しかったよね。全部分かるんだよ、名前のことだったら。
「………お母さんとお父さん、ここで食べられたの……」
「うん」
「…食べないでって、何度も何度もお願いしたんだよ………でも、ダメだった…」
「………うん」
「……わたし、何もできなかった…………」
「うん」
「…………ごめんなさい、ごめんなさい…………!!!!!」
もう一度、ぶわりと涙で溢れ出すその姿を見て、僕も涙が溢れそうになる。違うよ、なんでお前が謝るんだ。何にも悪いことなんてしていないのに。無力な自分が悪いわけじゃない。けれど、それでも後悔が拭えないわけじゃないよね。割り切れるものじゃないよね。分かるんだ、僕も同じだったから。君と、同じだったから。
その背中を壊れないように抱きしめた。すがりつくように、僕の胸の中に身をぎゅうっと寄せてくる。温かいだろう。僕も、名前も。生きているんだ、二人とも。もうひとりじゃない。一人で絶望を感じなくてもいいんだ。だって、俺がいるから。
「大丈夫、大丈夫………」
「………っ」
「もう、一人じゃないから……怖いことなんて、何にもない」
「……ふ、ぇっ、うん、うんっ」
「……僕も目の前で兄さんを失った。同じなんだ。辛かった。絶望だってした。だけど、一人じゃないって分かる。だって名前がいるから」
「……………うん、」
「大丈夫、俺がいる」
「むいちろうくん、むいちろうくん」と壊れたオルゴールのようにひたすら繰り返す名前に、一つひとつ「うん」と返す。もう
「…………名前」
「うん…………」
そっとその細顎を持ち上げる。大丈夫、もう二度と離さないって決めたんだ。ずっと一緒にいるんだと決めたんだ。それは、名前も一緒でしょ?
「離さないで……………」
唇から漏れたその言葉を奪い取るように、唇を重ねた。温かった。ひとりぼっちの夜から、ふたりきりの朝に。行こう、手をしっかり繋いで。そうやって、これからも生きていこう。こんなにも、大切な存在なんだから。もう一度名前をしっかりと抱きしめると、心臓の音が聞こえてきた。少し泣けた。