そんなこと言えない ―蝶屋敷にて 壱―


「はいもう行くよ。用意終わった?」
「あっ、ちょっと待って……!」

バン、と開けられた襖の向こう。無一郎くんが首を傾げた。少しだけ呆れた様子をしている。ううう、怒ってるかな。わたしは鏡台の前で髪の毛を整えていた。それも、長い時間。無一郎くんが呆れてしまうのも分かるくらい。
今日は初めて蝶屋敷にお邪魔する日。わたしの機能回復も兼ねて、これから何日間か通わせていただくことになっている。無一郎くんにしばらく止められていたけれど、ようやくこの前お許しをもらえた。炭治郎くんとか善逸くん、伊之助くんに言われた通りにお願いしてみたら、意外とすんなりと許してくれた。もちろん泣いてはいないけれど。すっごい複雑そうに見えたのは、見間違いだったのかなあ。
「…………………うん、いいよ」でも、最後にはそう言ってくれた無一郎くんはやっぱり優しいと思う。

蝶屋敷に初めてお邪魔するということで、ずっとお会いしたかった胡蝶さんという方にもお会い出来ることとなった。わたしの知らないところですごいお世話になったらしいし、優しい女性ということでお会いするのがとても楽しみだった。どんな方か分からないけれど、きっととても素敵な人なんだと思う。無一郎くんが、自分と同じく鬼殺隊の柱として働いていると言っていた。鬼殺隊………わたしたちのような被害者が増えないように。悲しみをまた産まないために。鬼を根絶やしにするという志を持った隊士がいるという。無一郎くんがそこの柱として働いているのは、初めはすごく驚いた。有一朗くんが殺された、そう聞いたときは涙が止まらなかった。無一郎くんが今、鬼殺隊として働いていること。わたしが言ってはいけないことだとは分かっているけれど、複雑なところもある。もう、誰も死なないでほしい。失いたくない。けれど、茨の道を進む無一郎くんを誇りに思うのも本当の気持ちだ。そんなところも、愛しいと思うから。

「……何ぼーっとしてんの」
「っ!」

気がついたら無一郎くんの顔がぐいっと近づいていた。無一郎くんは気配を消すのがとても上手いと思う。あっちの方にいたと思ったらもう目の前にいる。わたしが鈍感っていうのもあるけれど、炭治郎くんも「時透くんの高速移動はすごい!」って褒めていたから本当にすごいんだろう。才能なのかなあ。綺麗な淡い青の瞳がじっとこちらを見てくる。ただでさえ待たせているのに、考え事をしちゃうなんて、ダメだよね。「ごめん、待たせちゃって……」

「何、髪型に迷ってるの?」
「あ。うん………髪飾りがなくて……」

寝ている間にいくらか伸びてしまった髪の毛は、お手伝いさんに切ってもらって肩より少し長いくらいの長さになった。何かで纏めるか迷っていた、そんな理由でこんなに時間を使ってしまったと知られたのが恥ずかしくて、思わず俯いてしまう。
本当は、初めて会うからこそおめかしをしたかったし、仮にも無一郎くんにとってあまりよくない印象になってしまうのは嫌だった。無一郎くんがすごい人だというのは分かってるし、そんな無一郎くんと同じように柱という最もすばらしい階級で戦っている方も、もちろんすごいって分かっている。劣等感というのかな。そんなもの、髪の毛を綺麗にしただけでどうにかなるものではないのも分かっているんだけど………。ウジウジしてしまう性格はやっぱり直らないみたいだ。

「髪飾り………ほしいの?」
「えっ?」

無一郎くんの言葉にハッと気がつく。もしかしてほしいっておねだりしているように見えた? ブンブンと首を振る。そんな烏滸がましいこと、思わない。ずっと守ってきてくれたことはもちろん、今こうやってわたしをここにいさせてくれること、それだけで涙が出るほど嬉しいんだから。何も欲しいものなんてない。仮にそう思ったとしても、わたしなんかがそんなこと言ったらいけないよ……。

「ううん! もう大丈夫だよ、待たせてごめんね。用意終わりました」

何も言わずに考えるような表情をしている無一郎くんに、「ごめんね本当に。蝶屋敷、連れていってください」そう言う。無一郎くんは少し間を置いてから「うん、行こうか」といつものように軽々とわたしを抱き上げてくれるのだ。







「わあ………! すごく綺麗!」

蝶屋敷は、無一郎くんのお屋敷より少し大きく見えた。たくさんの怪我人が療養しに来る、診療所も兼ねているらしい。わたしが今住んでいる所と同じように辺りには藤の花が咲いている。その周りに、蝶がたくさん舞っていた。「疲れていない?」無一郎くんがそう聞いてくる。本当に優しいなあ、無一郎くんは。大丈夫、と声をかけるとまた歩き出した。お屋敷の中にズンズンと入っていく。「こんにちは!」「こ……こんちは!」無一郎くんと同じような隊服を着た人や、顔の半分が布で覆われている人が、彼を見ただけで頭を床につくぐらい下げている。改めて無一郎くんって本当にすごいんだな………そう思った。

「なあ、あの子……だれ?」
「霞柱の彼女?」
「隊士………ではないよな」

中には確実にわたしのことを噂している声も聞こえてきた。無一郎くんが目立つから、必然的にそんな彼に抱えられているわたしも目につくのだろう。誰? ってなるのも仕方ないよね。それでも恥ずかしさと気まずさで居心地が悪く、顔を隠すように無一郎くんの胸にきゅっと顔を埋めた。「……ぷ、」ちょっと笑うような声が上から聞こえてきて、無一郎くんが笑っているのが、震えている腕や胸から分かる。ごめんなさい、許して………。「ほんと変わらないよね、名前のそういうとこ」顔をあげられないわたしを見て、無一郎くんは小さくため息をついたあと、「ねえ、見世物じゃないから。そんなジロジロ見ないでね」周りにそう言った。「すいません!!!」バタバタと去っていく音が聞こえてきて、わたしはまた改めて無一郎くんの凄さを実感するのだった。


「こんにちは。時透くん」


唐突に、凛とした声が聞こえた。すごく穏やかな、綺麗な声だった。「胡蝶さん、」その無一郎くんの言葉を聞き、慌てて無一郎くんの胸から顔をあげる。

「診察室にいると思ってました」
「訓練所を見に行っていたんですよ。隊士がバタバタと走っていくから何事かと思ったら………時透くんだったんですね」

華奢だ。初めに出たのは、そんな感想だった。儚くて、すごく女性らしい綺麗な人。息が止まるくらいに美しいと思った。凛としている………まさしく、蝶みたいな方。黒目がちなその人の瞳が、わたしのと交じる。強い瞳だと感じた――わたしとは、違った瞳だ。

「こんにちは、眠り姫のお嬢さん。お会いできて光栄です」

そう言って彼女――胡蝶しのぶさんは、ニコリと天使のような微笑みを浮かべるのだ。





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