背後から忍び寄るは ―蝶屋敷にて 弐―
胡蝶しのぶさんは、わたしが想像していたより何倍も素敵な女性だった。女性らしい姿、声。けれどしなかやについている筋肉。戦う女性の証。それに、なんていうのだろう………気品かな? すごく上品な方だと思った。こんな素敵な女性が柱………。言葉が上手く出ずに口をパクパクさせていると、無一郎くんがまた笑うのが分かった。
「どうかされました?」
「いえ……緊張しているだけだと思います」
胡蝶さんはわたしたちを診察室に連れていってくれた。無一郎くんが、そこにある椅子にわたしを降ろしてくれた。座ったところで、胡蝶さんとパチリと目が合う。そういえばまだ、お礼も何も言えていない。
「あ、あの、わたし苗字名前と申します。わたしがあの、眠っている間にとてもお世話になったと聞いて………ずっとお礼が言いたくて」
こちらを見てふんわりと笑っている胡蝶さんは、まるで女神のようだと感じた。「いえいえ」その声もとても上品で美しい。
「時透くんがすごく大切にしていた方だったので、どのような人なのだろうってずっと思っていましたよ。なのになかなか蝶屋敷に来ていただけなくて……」
「すっすいません!!!」ガバリとお辞儀をする。すごい失礼な事をしてしまっていたんだ。「名前さんのせいじゃないのも分かっていますから。ねえ時透くん?」「………」わたしの斜め後ろにいた時透くんが物凄く微妙そうな顔をしていた。同じ柱同士だけど、胡蝶さんにはもしかしたら頭が上がらないのかもしれない。でも、なんでこんなに胡蝶さんは楽しそうに笑っているのだろう。
「まあ話は変わるんですが。お手紙でお知らせした通り、機能回復訓練をぜひ受けてみてほしいと思っているんです」
胡蝶さんは笑みを崩さないまま、機能回復訓練というものの説明をしてくれた。特に重い怪我を負った隊士達も受けているらしく、体をほぐす、反復訓練、全身訓練などいくつかの内容があることを知った。とは言ってもわたしは隊士たちと同じ内容を受けれるはずがないので、特別な内容を組んでいただけるらしい。本当にありがたい。至れり尽くせりとはまさにこの事だ。「ありがとうございます……!!」感極まって涙が出そうになるのを抑えながらもう一度頭を下げた。ポン、と後ろから頭に手が置かれる。隊服の隙間から伸びる、無一郎くんの手だ。
「じゃあ名前、僕は任務に行くから」
「あっ、うん。送ってくれてありがとう……!」
「終わった頃に迎えに行くから。とにかく無理しないこと。キツいって思ったらすぐに辞めるんだよ。周りの人にも気をつけて。何か嫌なこと言われたらすぐに教えてね」
「えっと………」
無一郎くんの言葉についおどおどしてしまう。すごい真剣な顔をしているからこそ、言葉につまる。唐突にふふふっと笑う声が聞こえた。胡蝶さんのものだ。「心配性ですね、時透くんは」
「名前さんのことは私に任せて。任務に行ってきてください」
「うん、大丈夫だよ、無一郎くん。心配してくれてありがとう。がんばるね……!」
最後まで複雑そうな顔を隠さないまま、無一郎くんはもう一度わたしの頭を撫でて「じゃあ胡蝶さん、俺は行きます。よろしくお願いします」と診察室を後にして行った。2人で無一郎くんのお見送りをする。胡蝶さんはずっと笑っている。シン………となった診察室でもう一度わたしは胡蝶さんと向き合う。
「あの、胡蝶さん」
「しのぶでいいですよ」
「しのぶ……さん。本当にこんなに色々してくれてありがとうございます。感謝してもしきれなくて………えっと、あの……」
「いいんですよ、そんなの気にしなくて」
しのぶさんは、クルリと自分が座っている椅子を回し、机に向き合う。そこにあるのは、恐らく隊士のものと思われる診察表と、いろいろな分厚い本。薬草、毒………? 難しそうな内容に首をかしげる。
「私は、鬼が本当に憎いんです」
「……」
「鬼で人生を奪われた人を目の前にすると、激しい怒りで頭が埋め尽くされてしまいます。ずーーっと忘れられない怒りです。鬼殺隊には、そんな方ばっかり集まっています。時透くんもそうでしょう?」
「…はい」
「あなたはそんな鬼に無慈悲に人生を奪われかけました。目覚めることができたのは本当に素晴らしいことです。けれど、その間に失った時間は、どんなに嘆いても戻ってこない」
「………」
「だから私はあなたのお手伝いをしたいんです。その時間を、少しでも早く取り戻してほしいと思っているんですよ」
「……っ」
「一緒にがんばりましょうね」
「………はい!」
ポロリと涙が零れた。まるで慈悲の塊のような方だと思った。力になってくれる、その言葉がとても嬉しかった。悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、歯がゆい思いをしてきたのも、全部その通りだったから。わたしは戦うことができない。けれど、ここでがんばって日常を取り戻すことが、唯一わたしにできる鬼との戦いなのかなと思えた。失ったものを、また取り戻せるように。
そうして、わたしの長い長い機能回復訓練が始まったのだ。
「がんばってください! 後一歩ですよ!」
「んんん………っ!」
分かっていたけれど、訓練は過酷なものだった。ほとんど底を尽きたといっても過言ではない自分の体力。それを無理やり戻そうとするのだから、体への負担はすごかった。支えを持って一歩踏みしめるだけでも、体力を根こそぎ持っていかれる。体が一瞬で悲鳴をあげるのが分かる。激痛の中で、自分が思っていたように中々歩けないことに悔しさが残った。
「大丈夫です、始まったばかりなんですから。これからですよ!」
そう言ってわたしを励ましてくれるのは、ここで働いているという神崎アオイさん。訓練全般を指揮してくれる、すごい人だ。アオイさんも鬼殺隊の隊士であり、怪我人の治療はもちろん、機能回復訓練の指揮、薬の調合などいろいろ出来るらしい。「ワタクシはそこまですごい人じゃないですよ。戦えないからこそここにいるんですから」そう言うアオイさんだけど、十分にすごいと思う。だって、誰かの力になっているのは間違いないことなんだから。誰かに必要とされていることは疑いようのないことなんだから。歩くのさえ難しいわたしとは、違う。そう思ってしまったのは、何でだろう。初日なんだから当たり前のことだとも分かっている。けれど、何も上手くできない自分の不甲斐なさが、少し辛かった。
初日の訓練が終わった頃、無一郎くんがわたしを迎えに来てくれた。クタクタになっているわたしを見て、「お疲れ様」と少し困ったように笑って抱き上げてくれる。「…………うん」力なくそう言う事しかできなかった。
(わたし、無一郎くんに迷惑かけてばっかりだなあ……。本当に本当にがんばるしかないよね………)
そう思いながらも、余りの疲れから、無一郎くんに体を預けることしかできなかったわたし。尚更悔しさが残った。
そして、無一郎くんが、わたしといるときに少しボーッとすることが増えてきたのも、この頃からだった。