この顔が見たかった ―蝶屋敷にて 漆―


涙が一瞬止まった。だけど、それはほんとに刹那で、それからわたしは、気がついたら涙腺が決壊してしまったかのように声をあげて泣いていた。ぎゅうっとしてくれるその香りに、温もりに。もう止まらなくなっていた。

「む、いちろ、くん」

弾むような息と、歪んでいるけれど、どこか安心したようなその顔。長い黒髪がわたしの頬をさらりと掠める。全部、全部、大好きな、無一郎くんのものだ。

「ごめんね、無一郎くん。ごめんね」

ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。背中に回っていた無一郎くんの片腕が、わたしの後頭部に移動する。そして、その手がゆるりと頭を撫でてくれた。いつものような優しい手つき。でも、どこかいつもより強ばっているように思えた。無一郎くんの肩に顔を埋めて、「ごめん」を繰り返す。その度に、頭を撫でてくれる。

「……心配した」

ちいさな声。少し震えているので、怒っているのだと直感した。

「物音がしたと思ってもしかしたらって名前の部屋を覗いたらもぬけの殻だし」
「……うん」
「屋敷中どこ探してもいないし」
「……っうん」
「まさかと思って、外を探してみたら……っ」
「うん」
「もう、こんなこと二度としないでよね………!!」

はっと気が付く。違った。震えていたのは、怒っているからだけじゃない。無一郎くんの綺麗な瞳からは、透明な涙が溢れていた。それを見て、わたしは息を飲んだ。わたし、こんな顔、無一郎くんにさせてしまっていた。思わずぎゅっと抱きついた。体が痛いのなんて、気にしていられなかった。

「名前が苦しんでいたのは知っていた。元気がなくなって、自分を嫌いになっているように見えたから。だから、本当は今すぐにでも訓練を辞めさせたかった。でも、名前が僕のためにがんばっているのに、そんなこと言えないって思った。だって嬉しかったから。あんな真剣な顔でがんばっているのを見て、応援したいって思ったのも本当で……」
「………」
「でも、でも。僕は名前にそんな顔をしてもらいたい訳じゃない……!!」
「……っ」
「名前が本当に隊士になりたいなら、僕が継子にする。強くなりたいなら、一緒に鍛錬をしていこう。でも、もう、俺のいないところで、傷つかないで。俺と一緒に強くなっていこう。お願いだから、一人で泣かないで…っ」

無一郎くんは、泣きながらぶつけるようにわたしにそう言った。言葉にできなくて、うん、うん、と頷く。一緒だ。わたしも、無一郎くんも、お互いのこんな顔を見たくて、訓練を受けたわけでも、承認したわけでもない。

わたしは、ただ、無一郎くんと一緒に歩きたかっただけだったんだ。
強くなれたらそれが叶うと思った。自分に自信がなかったから、何でも一人でできるようになって、無一郎くんの手から離れても一人で歩けるようになったら、そんな自信のなさもなくなると信じていた。でも、違った。わたしは、しのぶさんや蜜璃さん、カナヲちゃんみたいに、強くなりたかったわけじゃない。彼女たちのような、強い隊士になりたかったわけじゃない。

最初はね、単純にあなたの隣に立ちたかっただけだったんだ。自分の足でら隣に立って、一緒に出かけて、同じ景色を見たかった。そんな単純な理由だった。だけど、わたし、気がついたら随分と欲張りになっていたみたいだ。だって、わたし、何もあなたに返すことができないんだよ。今だってわたしを走って追いかけてくれて。いつもわたしを覆い被さるように守ってくれて、幸せを与えてくれて、本当に奇跡みたいだって思う。何もかもなくなってしまったわたしを、ずっと手放さないでくれて、あの日――家に帰って、残酷な現実を改めてこの身で噛み締めた時。ひとりじゃないって、全身で伝えてくれた。温かい、泣けるような口付けをくれた。そんなあなたに、何も返せない。それが、嫌で、嫌で、仕方なくて。いつしか強くなりたいって思いだけが先走って、空回りしていた。いつから、間違ってしまったんだろう。気がつくのが遅くなってしまって、ごめんね。一人で突っ走って、大事なことを忘れてしまいそうになっていた。
わたしだって、無一郎くんに、こんな顔をさせたいわけじゃない。ずうっと、笑顔で、一緒にいることができたら、それだけでわたしの生きる理由になるじゃないか。それだけで、有り余るほど幸せじゃないか。それを今、思い出せて、本当によかった。

「む、いちろうく、っ」
「……何?」

涙で言葉が上手く出ないけれど、伝えたかった。どうしても、今、伝えないといけないことだった。

「わ、たし、隊士に、なりたいんじゃないよ。無一郎、くんのっ、そば、に、いれたら、それだけでいい。本当だよ」
「…名前」
「わたし、間違ってた。大事なこと、見落としてた、ほんとにごめんなさいぃ………!」

わんわんと泣いた。無一郎くんがぎゅっとわたしを抱きしめる力を強めてくれたから、肺いっぱいに無一郎くんの匂いを感じた。安心する、世界で一番大好きな匂い。ああ、この幸せを、もう取りこぼしたくない。強く、強く、そう思った。



「名前」

しばらくしてお互いに落ち着いた後、無一郎くんは赤い目のままわたしの頬をゆるりと撫でた。その手が髪の毛のほうに移動する。擽ったくて、思わず目を閉じてしまった瞬間、チャラ……と音が聞こえた。

「……え」

音が聞こえた場所。無一郎くんの手があった場所を触ると、そこにはさっきまでなかった何かがあった。それを手に取って、見てみる。

「これ……」

そこにあったのは、可愛らしい桃色の花飾りが飾ってある簪があった。決して派手ではない、上品な作り。はっと無一郎くんを見る。照れくさそうに指で頬をかいる無一郎くんを、わたしは見つめることしか出来ない。

「がんばっている名前に何か贈り物をしようって思って。名前、髪飾り欲しそうにしていたのを思い出して。でも僕、女の人が好む物とか柄とか何もわからなかったから。だから蝶屋敷にいた甘露寺さんにお願いして、手伝ってもらいながら探していたんだ」
「あ………」

蜜璃さんとよくお話をしていた無一郎くん。わたしを遠ざけるように二人でいるように見えたのは、これのためだったんだ。わたし、勘違いして、変な嫉妬をしていた。

「でもそれのせいで、名前を悲しい顔にさせていたんだね。本当にごめん…」
「違う! わたしが勝手に……!」

無一郎くんはいつもわたしのことをこんなに考えていてくれていた。そのことを知って、胸が張り裂けそうになる。どうしよう。どうしようもないくらい、好きだと思った。こんなに大好きな無一郎くんに伝えたいのは「ごめんなさい」だけじゃない。もっともっと、伝えたいことがあるんだ。

「ありがとう……っ!!」

また涙が滲んだけれど、笑顔でそれを伝えた。わたしの全ての感情が、この五文字に乗っかっている。単純だけど、1番伝えたいこと。無一郎くんは一瞬だけ瞠目して、そして満面の笑顔を浮かべる。まるで、花が咲いたようだ。

ああ、わたし、

「「この顔が、見たかったんだ」」







その後も蝶屋敷へ通うことは続いた。けれど、もうわたしは間違えることは無い。幸せは、突っ走らなくてもすぐそこに転がっていることに気がついたから。わたしは、わたしの速度で歩いていく。大切な人と、一緒に。





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