威勢のいい弱音
――名前は稀血だった。そのことを聞かされたのは、僕の記憶が戻ってから。御館様は「よかった、本当に。おかえり、無一郎」と笑ってくださった。そしてあの日、名前の家を見に行った時に起こっていたことを、全て教えてくれた。名前は、おそらく最初鬼に襲われた時に怪我をして、腕から出血をしたという。その時に稀血であることが分かり、術をかけられた。勿体ぶったのか、自分の住処に連れて帰って他の奴に自慢しようとしたのか、そんなことは分からない。けれど、直ちに"食べる"という判断をその鬼がしなかったことで、名前は幸運にも生き延びた。代償は大きいけれど、生きてくれている。それだけが、唯一の救いだった。
両親はどこにもいなかったという。鬼に食べられたのか、連れ去られたのか、何も分からない。名前が襲われた時と同じ時に両親も襲われたのか、それとも先に両親から襲われたのか。当事者である名前が目覚めないので、何も分からないままである。
稀血――1人食べるだけで50人、100人食べたことに匹敵する力を得られる。鬼にとってはご馳走だったんだろうけど、僕にとってはどうでもよかった。なんで、どうして。どうして彼女がそんな目に遭わないといけないの? 身が焦がれるような怒りが体を埋め尽くす。"怒り"の感情は、記憶を失っている時も、取り戻した後も、ずっとずっと心の奥底にへばりついている。鬼。この世に存在してはいけない存在だ。最愛の兄が目の前で腐っていくのを、ただ見ることしかできなかった。最愛の女の子が目の前で苦しそうに眠り続けているのを、ただ見ることしかできなかった。強くなりたい。もうこの手から、何も失いたくない。名前を、取り戻す。これは俺の、生きる理由だから――。
「炭治郎、ありがとう」
時透は、炭治郎の言葉に柔らかい笑顔を浮かべた。「力になりたい」そう言ってくれた炭治郎は、とても心強いしその気持ちが嬉しい。
「………でも、ごめん」
けれど、それでも時透はそんな炭治郎の思いをはっきりと断ったのだ。「なんで……」炭治郎は困惑したまま時透に聞く。
「もちろん炭治郎がそう言ってくれたのは嬉しいし、すごい心強いよ。けれど、これは僕個人の問題だから。鬼殺隊とも何も関係ない。炭治郎にだって別の目的があるでしょ。こっちの問題に時間を使うのが勿体ないよ」
「そんなの………」
そんなこと、思うはずがない。だって、分かるんだ。今どれだけ彼が苦しい思いをしているのか。炭治郎はフルフルと首を振る。
「俺も、禰豆子が同じような状況になったことが昔あって。だから、時透くんの気持ち、すごい分かるんだ。俺も、ずっと眠っている禰豆子を見ていると、気が狂いそうになった。でも、禰豆子は寝ている理由も分からなかったし、そもそも鬼だからどうすることもできなかったから、ただひたすら時が経って目覚めてくれるのを待つことしかできなかった。でも、名前さんは禰豆子とは違う。眠っている理由も、起きる方法も、時透くんは知っているじゃないか。俺は頼りになるか分からないけれど……。それでも、一人で探すよりは、可能性がある!」
ほっとけない。こんな寂しい話、あってはいけないことだ。何も悪いことをしていないのに、鬼にかけられた術のせいで、二人の人間がこんなに苦しんでいるんだ。それも、もう3年間も。保身でも偽善でもなんでもない。もっと純粋な気持ちだ。炭治郎のまっすぐな思いを聞いて、それでも時透は首を振った。「なんで?」 思わず強い口調で問いただしてしまった炭治郎の様子に、禰豆子も目をパチリとさせている。
「……さっきも言ったよね。俺は、名前を、もう二度とこんな状況にしたくない。手の届く範囲にずっといてほしい。名前のためなら、俺は多分何だってできるから……。それくらい大事な存在なんだ」
チラリ、と時透が名前を見遣った。規則正しい呼吸音を聞き安心したのだろうか、少し落ち着いたような匂いが時透からはする。
「誰の手も触れさせたくない。本当は、誰の目にもいかないようにしたいとさえ思う。……変なのかな、分からないけれど」
「時透くん……」
さらり、隊服に隠れる時透の手が、名前の頭を撫でた。気持ちよさそうな手つきだ。禰豆子だったらきっと、もっとやってと甘えてくるんだろう。けれど、名前には何の変化も起きない。そんな日々を、時透は一人で過ごしてきたのだ。
「名前を眠らせた鬼を見つけたとき、自分がどうなるか想像がつかないんだ。鬼殺隊の柱として相応しい行動を取れるか、それさえも分からない」
「………」
「炭治郎に迷惑をかける訳には行かないよ。仮にも僕、柱だし」
「……迷惑だなんて、そんなの思わないよ…」
「………うん、そうだね。でも、やっぱりごめん、炭治郎」
もう一度言われた拒否の言葉に、炭治郎は何も言えなかった。「俺もごめん……」そう言って炭治郎は頭を下げる。なんと言うのが正解なのか、分からなかった。
「炭治郎には話しちゃったけど、それでも鬼殺隊の中でこの事を知っているのは、御館様と炭治郎だけだから。知らなかったことにして。忘れてくれて全然いいから。でも、絶対誰にも言わないでね」
「うん………」
「ありがとう。でも、炭治郎が手伝うって言ってくれたの、すごい嬉しかったよ」
時透は笑って、「じゃあ鍛錬しようか!」と立ち上がった。「禰豆子ももうお終い」と炭治郎たちの手を引く。襖を閉められた向こう側からは、やっぱり苦しそうな匂いがした。でも、同じくらい、目の前で笑う時透からもその匂いがした。