この静寂を抜け出して


「無一郎くん、わたし、行ってみたいところがあるの」

名前が僕にそう言ってきたのは、大学の講義がない日曜日の朝のことだった。

「どこ?」

名前が洗ったお皿を、僕が布巾で拭く。その手を止めて、名前は「ちょっと待って」と居間の方に向かっていった。宇髄さんが見たら、驚くかもしれない。いや、「時透がそんな顔するなんてなあ」と面白がるかもしれない。主からの連絡は、相変わらずなかった。いつその日がやって来るのかさえ分からず、ただただ静かに時間は過ぎていく。名前が提案した家族ごっこを、相も変わらず続けていた。不思議なのが、めんどくさいと思うことが一回もないこと。もちろん仮にそう思ったとしても、仕事だと割り切ることはできるけれど。でも、そうではなく。
今までとは比べ物にならないような穏やかな日々。自分の任務さえ忘れてしまいそうな日々に、僕は心地良ささえ感じてしまっていたから、厄介だった。

「じゃーん! これ、見て」
「………水族館」

大学に持って行っているトートバッグを漁った後、名前は効果音つきで1枚の紙を差し出してきた。そこに書いてあったのは、この地区から少し離れたところにある水族館の名前。最近オープンしたばかりのそこが連日賑わっていることを先日テレビで見たばっかりだったから、聞き覚えがあった。

「うん。こういう所、わたし行ったことなくて。死ぬ前に1回行ってみたいなあって思ったの」

(ああ、まただ。)

最近、僕は自分の体に違和感を覚えていた。名前の死期について考える時、こうして、何気ない会話に「死」という言葉が出てきた時。僕は、心臓辺りが小さく痛むことが増えた。可哀想だなあと憐れんだり、もうそろそろお別れなんだなあと寂しく思ったり、そういう痛みではない。今まででは感じなかった痛みだ。自分でも分からないから、ただただ気持ち悪かった。何かがへばりつくような感覚。何かを言いたいのに、何かをしたいのに、それが分からない。もう生まれてから飽きるほど年月を経てきた。それこそ、数えるのも馬鹿らしくなるほどに。けれど、こんなのは、生まれて初めてだった。
名前は相変わらずよく笑う子だった。最初の諦めたような笑顔ではなく、最近では、心から楽しいと思えるような笑顔を向けてくることもある。それは、僕がいるからなのか。一人に慣れてしまっていたように見えたけれど、やっぱり寂しかったに違いない。そんな彼女を見て、僕は、また自分の任務を忘れそうになる。

「いいけど、随分と混んでるんじゃない?」
「分かってないなあ、無一郎くんは。混んでいる時に行くと、なんか人気の所に来た!っていう感覚にならない?」

「何それ、全然分からない」プッと噴き出してしまう。相変わらず面白い子だなあ。人混みなんて、息苦しいだけなのに。彼女の世界は、僕にとっては新鮮だ。

「言っとくけど、僕の姿は他の人には見えないからね。名前が一人で休日に水族館行ってるように見えるから」
「わ……分かってるよそれはっ」

「もう散々大学で言われてるから! 名前ちゃんはいつも独り言を言ってる不思議な子って」プクッと頬を膨らまして、これっぽっちも痛くもないパンチをしてくる。楽しいと思ってしまう。この日々が。ずっとこんな日々が、と思ってしまう。


心のどこかで、どうしても思ってしまう。どうか続いてほしいと願ってしまう。こんな日々が。


「あ………無一郎くん。その前に、お洋服買いに行かない?」

ふと思い出したように、名前が言う。洋服? 服なら今、着ているじゃあないか。

「違うよ。今はずっと任務の隊服着ているじゃない。普通の、男の子が着ているような服。せっかくなら一緒に買いに行こう」
「いや……買ってもな…」

確かに今の隊服は、街の中では浮いてしょうがないだろう。けれど基本、僕は誰からも見えない。だから服装なんて、正直なんでもいいのだ。もちろん拘りもない。それに、僕が服を着たって、僕が身につけた瞬間にまるで消えてしまうかのように周りには見えるだろう。誰も見ることがない。だから、必要なんて全くないのに。

「無駄じゃないよ。わたしが見るもん。どうせお出かけするなら、無一郎くんもかっこいい洋服着て、一緒に行きたい」

「ね、じゃあ今からお洋服買いに行って、レイトパスで水族館は行こう! 用意して、無一郎くんも!」背中をグイグイと押してくる名前。その言葉が、なんだか擽ったかった。「死神」である僕を、彼女は、「死神」としてではなく、「時透無一郎」として扱ってくれるから。たまに、思わず息が止まってしまうような言葉をくれるから。背中にあるその頼りない手が、しっかりと温かさを持っていることに、なぜか、泣きそうになってしまうのだ。


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