休日に水族館に行く道は、いくら遅い時間だといっても、とても混んでいた。電車とバスを乗り継ぎながら目的地に向かっていく間、名前はずっと笑っていた。僕の新しい服を買って、とても満足そうにしていたのはついさっきのこと。「無一郎くんは基本なんでも似合うね」と悩みに悩みまくっていたから、最終的に何とか決まったのはよかったと思う。疲れを知らない様子で、「楽しみだねえ」と笑いかけてくる。まるで汚れを一切知らない子どものようだった。
「すいません、レイトパスがほしいんですけれど……」
水族館の受付に着き、入場券を購入する。「レイトパスですね。おひとり様でよろしいでしょうか?」休日に一人で来る人は珍しいのではないかと思っていたけれど、係員の人は意外と淡々としていた。「いえ、」
「2人分で。お願いします」
指で2を作る後ろ姿。まただ。無駄にお金がかかってしまうだけなのに。こういうことをするのが、名前なのだ。「はい!」入場券を買い終えた名前は、当たり前のようにその片方を僕に渡してきた。「必要ないよ」なんて言葉は使わない。決して切られることのない入場券。たった1枚の紙切れが、こんなにも存在感があるなんて。初めて知った。
(………ダメだ、考えたら)
朝方も思ってしまったこと。この時間が、続けばいいのに、だなんて。そんなこと、思ったらダメだ。ナンセンスだ。運命は変えられない。名前はどう足掻いても苗字家の生き残りであるという事実を変えられないし、僕にできることは、その命をただただ刈り取ることだけ。仕事だ。任務だ。自分で言ってたではないか。割り切ることが必要だって。憂いても、運命からは誰も逃れられないのだから。
「無一郎くん?」
ハッと気がつく。名前はもう入場ゲートの向こう側にいて、不思議そうにこちらを見ていた。「あ……ごめん」僕もその後ろを追って、水族館内に入っていく。使われることのない水族館の入場券を、無意識の内に綺麗に折ってポケットにしまっていた。ゴタゴタ考えるのはやめよう。「家族になってほしい」。対象者の願いを叶えるのが、僕の任務だ。
「どこか見たいところはあるの? もう時間的にイルカショーはやっていないでしょ」
「うん、イルカショーは仕方ないね。……ここ、この大トンネル! 気になっていたんだ」
館内のマップを広げ、指を指す。そこは、この水族館の目玉ともいえる、大きなトンネル型の水槽だ。他の水槽も見たそうにはしていたけれど、どうやら一刻も早くその場所に行きたそうにしている。キラキラと輝いている目。純粋な、その瞳。けれど、きっと苦労ばっかりしてきた名前。水族館に行くのだって、この歳で初めてだと言う。普通の人が当たり前のようにやっている事、見ている事を、まるで宝物のように楽しめる。それは、名前が普通の人ではないことの証明のように感じた。気持ち悪い。また、胸になにかがつっかえるような感覚。だから、僕はそこで考えるのをやめた。
「わあ……! すごい」
着いたそこは、さすが目玉というような場所だった。圧巻的な光景。足元から、頭上まで。透明な水槽に囲まれたまま、僕たちは魚の遊泳をひたすら眺めた。サメのような大きい魚から、それについて泳いでいる小魚まで。たくさんの魚たちが、ゆっくりと泳いでいる。まるで時が止まったような感覚だった。キラキラと照明の光が水面に反射して、辺りが蒼色に包まれる。僕も、名前も、その蒼色の中でただただ佇んでいた。
名前は、ひたすら目の前を泳ぐ魚を眺めていた。最初こそ驚いたように、嬉しそうに笑っていたけれど、その後はただただ静かに見つめていた。初めて見るその光景に、彼女は、何を感じているのだろうか。僕も、運命さえも、何もかも受け止めてしまうその瞳には、何が映っているのだろうか。遅い時間だけれど、まだ辺りに人はたくさんいる。流れの中で見に来る人が多い中、名前だけは、ひたすらその場所に佇んでいた。光の反射で蒼色に包まれるその体。さっきまで、はしゃいでるその姿は子どものようだったのに。一転して、儚くて、消えてしまいそうで。それを見て、その瞳を見て。ああ、やっぱり彼女は、普通ではないんだなあ。そう思ってしまったから。魚は何も変わることなく、行ったり来たりを繰り返している。穏やかな時間だ。時が止まるような感覚。それが、本当になってしまえばいいのに。そう願ってしまった時点で、きっとなにかが始まっていたのだと思う。始まっても、意味が無いことなど、分かっていたはずなのに。