僕の中で育つもの


あれからしばらくして。相変わらず僕は何も言わないまま、その体を離した。お互いに何も言わず、しばらく見つめ合う。そうして、どちらからともなく、手を繋いだ。名前の指は、細くて頼りなかった。自分の指を絡ませる。溶けて、消えてしまえばいいのに。誤魔化すことなく、そう思った。「お土産……見に行きたい」ポツリと名前が呟く。その顔は、少し赤くなっていた。僕もなんだか照れくさくなってしまって、「うん、行こう」とその手を引いた。

店内には、たくさんのお土産が並んでいた。子どもの背丈ほどの大きさがあるぬいぐるみや、実用品、お菓子など。色々な種類のお土産が置いてあって、名前は圧倒されていた。その様子がなんだか面白くて、ぷっと笑うと、ムッとしたようにこちらを見てきた。しばらく店内を物色して、名前は、ある1点の場所に止まった。ディスプレイに並んでいるのは、小さなストラップだった。イルカの形をしている。今回は見ることができなかったけれど、やはりイルカはこの水族館でも人気なんだろう。ピンク色と、水色が煌めいている。スワロフスキーを使っているから、いくら小ぶりといえども、そこそこの値段がする。「……貯金、使おっかな」ポツリと名前が呟く。どうやらこのストラップを、相当気に入ったらしい。その手が取ったのは、ふたつのストラップが一つの商品として売られているものだった。ピンク色と、水色のイルカ。それぞれが真ん中にハートを半分ずつ持っていて、合わさって一つになるというもの。

「お揃いで、買ってもいいですか」

僕を上目遣いで見て、そう言ってくる。目を見開いてしまった。また、込み上げてくる。けれど今回は、嫌なものではなかった。単純に言うと、嬉しかったんだ。「いいよ」と言うと、本当に嬉しそうな顔をする。それを見て、僕の顔も、ゆるゆると緩んでいたと思う。名前はまた照れくさそうにして、僕から目線を外す。「買ってくるね」と言った名前から手を離したとき、柄にもなく寂しいと思ってしまった。

「はい、お揃いだね。捨てないで持っていてね!」
「さすがに捨てないって。ありがとう」

水色のイルカを僕に手渡し、自分のピンク色は大事そうにカバンに付けた名前。僕は付けるものを持っていなかったから、とりあえずポケットにしまう。水族館の入場券と、ストラップ。今日のことを、きっと僕は永遠に覚えているのだと思う。こんなにも輝いた日を過ごしたのは、初めてだから。全てが変わった日だから。きっと、時が経てば、この日も遠い過去の一つになってしまう。目の前の名前が死んで、一つの仕事を終えて、また新しい仕事に行く。変えられないと分かっているからこそ、忘れたくなかった。辛い思い出としてではなく、心から幸せだと思った思い出として、ここに残しておきたい。ずっと、ずっと、忘れないから。名前は死んでしまう。それは変わらないけれど、僕はちゃんと、覚えているから。

「……無一郎くん、変な顔している」
「え。無意識だ。そんな変な顔してた?」
「うん、なんか、……泣きそうな顔」

それはきっと、目の前の名前が決して泣かないからだ。怒っても、笑っても、決して泣くことだけはしない。「泣かないでほしいな」困ったように笑いそう言った彼女の唇に、気がついたら僕は唇を重ねていた。名前も、静かに受け止めていた。この時がずっと続かないことを、二人とも痛いくらいに分かっているから。だから、せめて、心に残るように。彼女が少し震えていたのは、きっと、気の所為ではない。それが、恥ずかしさや照れくささだけではない、もっと深い感情から来ることも、僕は、分かっていた。







その夜、わたしは夢を見た。白い霞の中で、女の人が、誰か男の人と一緒にいた。男の人は後ろを向いていたため顔が見えなかったけれど、女の人は笑っていた。霞んでいるからハッキリとは分からないけれど、とても楽しそうにしていた。幸せそうな、その様子を見て。ああ、その感情、わたしも知っているよ。そう言いたかった。知っているんだ、そんな顔になってしまう訳。わたしも、最近ずっと同じだったから。彼が、隣にいてくれて、ずっと笑っていたから。

『生きることを、諦めてほしくないの』

いつかの声が、また頭の中に響いてきた。目の前の光景とは別で、その声はどこか震えていて、苦しそうだった。わたし、諦めているのかな。そうなんだろうけど、分からないんだ、ごめんね。考えたくないの、今は。目の前の光景を、ここから、ずっと見ていたいんだ。

『どうして? あなたも、あそこにいる彼女と同じ気持ちなんでしょう?』

そうだよ。あの女の人と一緒。わたし、ちゃんと、幸せなんだよ。だから、これ以上望むのは可笑しいんだよ。いけないんだよ。そこで、ふと気がついた。………あれ、いけないって、誰に言われたんだっけ。

『幸せって、どちらか片方だけが持っていてもいけないのよ。二人で分け合って、初めて、本当の幸せに変わるんだよ』

目の前の男女。恋人なのかな。男の人はこちらを見ていないけれど、きっと同じように笑顔なんだと思う。だって、あんなに女の人が楽しそうにしているもん。ただひたすら温かい。このままずっと続いてほしいと思ってしまうような風景。やさしくて、ふわふわで、まんまるな場所。けれど、その声は『違うの』そう言ってくる。なにが、違うんだろう。

『一緒にがんばろうよ。運命だなんて、そんな簡単に諦めないでほしいの』

すっとその声が遠くなっていくのを感じて、どこかで、ああ、今回はここで終わりなんだなって何となく分かってしまった。ああ、名前、また聞くの忘れてしまった。あなたは、だあれ? 聞きたいけれど、もう声が出なかった。

女の人は、相変わらず幸せそうに笑っている。2人の幸せが、どこまでも続いてほしいと思う。心から笑えることってすごいことなんだよね。それも、彼と出会って、わたしは知ったんだよ。

意識がすっと薄れていくのが分かった。この微睡みから、もうそろそろ醒めてしまう。醒めた先、そこに、彼がいてくれたらいいと思う。出会ってから、随分と欲張りになってしまったのかな。あの口付けを、思い出す。……ダメだ。わたしは、何かを願ったりすることなんて、してはいけない。


――夢から覚めようとする前。体がふわりと浮いた。そのお陰で、今まで見えなかった男の人の顔が見えた。その顔は、大粒の涙で濡れていた。


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