「おはよう」
朝目が覚めたとき、もう何も覚えてはいなかった。なんだか、また懐かしい夢を見ていた気がする。わたし、何をしていたんだろう。起きた時に、無一郎くんが声をかけてくれた。それが、なんだかとても嬉しくて。夢の中で、願っていたのかなあ。
昨日のこと思い出して、少し照れくさくなってしまう。「…………おはよ」存外小さな声になってしまった。もう一度布団の中に潜り込む。クツクツと小さな笑い声が聞こえた。
あの抱擁、それに、口付け。顔が真っ赤になる。芽生えた気持ちに、もう気がついていた。わたし、無一郎くんのこと……。けれど、それは言わない。彼が死神だからとか、わたしがもうすぐ死ぬとか。そんな理由がないわけではないけど、言う必要はないと思った。多分、この死神さんは、全て分かってくれている。
「朝ごはん作ったよ。今日は一コマ目から授業入ってるんでしょ」
「うん。ありがとう」
いい匂いが漂ってきて、お腹がぐぅと鳴った。布団からモゾモゾと起きる。チビはまだクッションの上で丸まっていた。「何コマ目まで?」無一郎くんが聞いてくる。
「今日は午前中しか授業が入っていないの。だから、お昼ご飯食べに行こ!」
「言うと思った」
太陽が昇り始めている。今日もいい天気だ。どこかのお店に行くのもいいけれど、外でゆっくりとご飯を食べるのもいいかもしれない。無一郎くんに頼んで、お弁当を作ってもらおうかな。考えていると、時間はあっという間に過ぎていく。用意を終えて、靴を履く。鞄を持ち、振り返る。無一郎くんは、いつもわたしを見送ってくれた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そう言い合えるのは、あと、何回なんだろう。
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講義を終えた後、大学の正門に向かうと、見慣れた姿が見えた。ここで会うのは、初めてだ。昨日の服は洗濯してしまっているから、相変わらず隊服を着ている無一郎くんは、まるでこの風景に溶け込んでいない。ふふふ、と笑ってしまう。迎えに来てくれたのかな。心がポカポカと温かくなるような感覚。ちらり、ぼーっとして見える水色の瞳が、わたしを映す。
「お疲れ」
「ありがとう。来てくれたんだね!」
嬉しくて、走って駆け寄る。「お昼、食べるんでしょ」無一郎くんが持っていたのは、見慣れたお弁当箱。本当に作ってくれたんだ。
「うん、食べる。近くに大きな公園があるの。そこに行こう!」
無一郎くんの手をグイッと引っ張る。無一郎くんは驚いたように目を見開いて、すぐにその後笑った。そのまま、彼の手がわたしの手を掴む。この手が、あまりにも優しいから。無一郎くんはなんの意味もない物だよ、って言うけれど、わたしはこの手が、とても好きなんだ。それを言ってみても、無一郎くんは納得してなさそうにしてたけど。
公園は、親子連れの人たちがたくさんいた。キャッキャッと活気に溢れているそこの端の方。誰にも見られないところで、わたしたちは静かにお弁当を食べた。無一郎くんが作ってくれたお弁当はとても美味しかった。食べ終わった後、すぐに眠気が襲ってくる。暖かい気温。満腹のお腹。瞼が落ちそうになるわたしを見て、「寝てもいいよ」と無一郎くんが笑ってくる。寝たらなんか、勿体ないよなあ。そう思いながらも、襲ってくる眠気に負けそうになった時。
「ふえぇぇん……」
近くで、泣き声が聞こえた。無一郎くんと顔を見合わせて、声の出処を探る。木の向こう側、そこに、小さな男の子がいた。
「どうしたの?」
膝に顔を埋めて、泣いている男の子。抱えた膝小僧からは血が流れていて、その頭も少しタンコブができているように見えた。「き、のぼってたら、おち、ちゃって」涙を流しながら痛いよう、と訴えかけてくる。近くの木には枝が折れている部分が見えた。結構な高さから落ちたようだ。頭も少し打っているのだろう。今は重症ではなさそうだけれど、後で何かがあったら大変だ。迷うことなく、その子に手を翳した。「大丈夫だよ」そう言うと、男の子がまんまるの瞳をこちらに向けてくる。大丈夫だよ、お姉ちゃんが、治してあげるからね。「名前、」隣から、無一郎くんの声が聞こえた。
突如、わたしの胸を今まで感じたことのない痛みが襲ってきた。息が一瞬止まる。男の子は一瞬で元気になったようで、「ありがとう!」と去っていった。それを何とか笑いながら見送って、けれど、次の瞬間には膝から崩れ落ちていた。
痛い、痛い、痛い。
「名前っ、」無一郎くんの焦ったような声が聞こえてくる。なにか返したいのに、体中を駆け巡る痛み、不快感に言葉が出ない。はじめてだった。もう、限界は近づいているのだろう。死。それが、目に見えて分かったから。だから、大丈夫だよ、って笑おうとした。けれど、それさえも、できない。これが、力の代償。苗字家が辿ってきた、運命なんだね。無一郎くんの顔を見ると、端正なその顔が、くりゃりと歪み切っていた。
ああ、わたし、もしかしたら。本当は、本当はね、―――。