夜明け前の透明


名前の家に戻ると、小さく風が吹いてくるのを感じた。ベランダに寄る。僕がここを出る前に寝ていた彼女が、静かにそこに立っていた。ベランダの柵に腕を預け、決して綺麗ではない曇り空を眺めている。「起きてたんだ」少し驚いたようにこっちを振り返る姿に、なんだか笑えた。

「無一郎くん。どこ行ってたの?」
「仕事だよ」
「そっかあ」

「いなくなっちゃったのかなってびっくりした」そう言って笑う名前の横に立ち、同じように空を見上げた。暗い空に、灰色の雲が翳っている。眺めるには、どうしても憂鬱な気持ちになりそうだ。「起きちゃったの?」

「……夢を、見ていた気がする」
「夢?」
「うん。なんにも覚えていないけど、いつも見ているような気がして」

儚い表情に、僕は息が止まりそうになった。そこにいるのは、確かに名前なのに。「夢を見ていた」と語る名前が、誰かと被る。誰だろう。確かに見たことがある。だけど、それは僕じゃなくて。じゃあ誰なんだろう。分からない。僕も、同じように夢を見ているのだろうか。

「そういえば、お昼はごめんね。ありがとう」
「そんなことまだ気にしてたんだ」
「せっかく無一郎くんのお弁当デビューできたのに、台無しになっちゃった。悔しいなあ」
「なんだそれ」
「でも、もうそろそろだなって分かったからよかった!」

静かに、名前を見る。空を見上げたまま、楽しそうに、随分と愉快そうにしている。最期の最期に、楽しいこと全部しちゃおう。ワクワクしたように、そう話すんだ。

「死ぬ前に、どうせならやってもらいたいこと全部やってもらおうって思って。明日は何しよう。一緒に講義受けてもらおうかなあ。わたしが寝ちゃっても、無一郎くんに授業のノート取っといてもらうの。楽だからいいね」
「……」
「あ、それか、どうせならなんか高い物食べに行くの連れてってもらおっかな。今まで遠慮してたけど、もう死ぬなら行った方が後悔しないかなって。大学は考えてみたら行く意味ないよねえ…」
「………」
「水族館デビューは果たせたから、次はどうしよう。テーマパークはさすがにハードル高いかな?」
「…」
「あと少しだけだけど、いっぱい甘えさせてもらうかも。鬱陶しくなったら言ってね。遠慮なんてしなくていいから」


そう、それは、すごく不自然なくらいに。


「名前」
「……うん?」


「好きだよ」


静かな水面に、一滴雫が跳ね落ちたような瞬間だった。想っても、ましてや伝えても、意味が無いと思っていた。だけど、言葉にしないと溢れてしまう想いが、ここにはあった。閉まっておくには苦しすぎる。だって、どんな瞬間も、いつも思っていることだから。永遠に続く線のような人生の中で刹那の瞬間だけど、すでに数え切れないくらい思っているから。僕たちが踊らされている運命も、彼女が背負っているしがらみも、身分も、苦悩も、何もかも。言葉はそれら何もかもすり抜けて、ただ一つシンプルな響きを持っているのだ。まるでろ過された清水のように。たった一つの意味だけを、持っていた。

「………ずるいよ、無一郎くん」
「うん」
「……なんで、今、言うの」
「うん、ごめん」
「ずるいよ、ずるい…っ!」
「……分かってる。ごめん」
「死んでもいいかなって、本当に思ってたんだよっ」
「うん」
「そんなこと思ったらいけないって、何度も何度も、自分で釘さしてたんだよ…!」

「なのに、なのに……っ」

僕の胸にすがり付いて、その小さな拳で叩いてくる。ごめん、その一つひとつだって、逃さず包みたくなってしまうんだ。


「わたし、……っ死にたくないって、…無一郎くんと生きたいって、思っちゃうじゃん……!!」


「わたしだって、……」振り絞るように吐き出された、儚い声。もう、生きることを簡単に諦めている、あの頃の声色ではない。それが名前を苦しめていることを、僕は痛いくらいに知っている。けれど、それでも、嬉しかった。ぎゅうっと歪められたその瞳からは、ポロリ、涙が零れていて。ああ、やっと見れた。それでいいんだよ。間違っちゃいないんだよ。そうやって、どんなに格好悪くたって、這いつくばって生にしがみついて。生きようとしてくれよ。暖かいその身体を、そっと抱きしめる。じわりと胸元に、体温ではない温かさが広がったから、その頭をゆっくりと撫でた。泣いていいよ。今まで泣かなかった分、全部。そうして、「死んでも構わない」なんて思いも全部、流しきってしまってよ。未練を残せばいい。僕に、未練をちょうだい。生きる理由に、なれたらいい。死神の僕が、またひとつ、柄でもないことを願った。夜明け前のことだった。不完全な僕ら。きっと、運命は許してはくれない。それが、険しい道のりだってこと、全部分かってる。けれど、ただ、今だけは、綺麗で不完全な、この透明な世界にいたいと願う。


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