前回と同じように、電車とバスを乗り継ぐ。今回は平日だから、以前のように混んではいない。遅い時間に行くのは変わらずだったため、随分と静かだった。名前はバスに乗り込む際、僕に窓側に行ってほしいとグイグイと押し込んだ。僕と名前以外、バスには乗客がいない。一番後ろの席の、一つ手前。「もうそろそろ夜になるね」名前が言った通り、辺りは一面オレンジ色に染まっている。
ゆらゆら。バスに揺られながら、随分穏やかな時が流れる。
「……何?僕の顔、なんか付いてる?」
「えへへー。バレた。なんも付いてないよ」
横からうるさいくらいの視線が感じて、訝しげに名前に問う。ニヤニヤ、ニコニコ、にんまり。彼女は、どの言葉でも表せられそうな表情をしていた。
「夕陽に照らされる無一郎くんが、すっごく絵になってたの!」
明るい声に、不覚にも胸がときめく。一瞬息が止まってしまったのは、なんとも情けない。
「ストーカー」
「ふぎゃっ。ひどい!」
それを隠すように、名前の鼻を摘む。「息できないー!」ケラケラ笑う名前。お返しだというように僕の鼻に手を伸ばしてくるように見えたから、軽くかわしてやった。死神の運動神経、舐めないでよね。
「あのー…お客様。通話は御遠慮いただきたくて……」
バスの運転手の困ったような声色が、インカムを通して車内に響く。当たり前だが、僕の存在は名前以外には見えない。だから、ぎゃあぎゃあと騒いでいるのは、おそらく誰かと電話をしているからだろうと判断されたようだ。「ごめんなさい……」恥ずかしそうに、しゅんと小さくなる名前。ぷっ、と横で笑ってしまう。
「無一郎くんのバカ…!」
小さな声で呟き、睨んでくる。その顔、かわいいなあ。呑気に考える。恥ずかしい思いをさせてしまったのは、可哀想だったけど。
「…!えへへ」
鼻に伸ばしかけたまま宙をさまよっていた小さな手を、握る。僕と名前の間で繋がれたそれを見て、名前は驚いたような顔をした後に、それはそれは幸せそうに笑うのだった。
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オープンしてから時間が経っており、人の流れもかなり少ない。名前は以前のように当たり前にレイトパスを2枚買う。以前のチケットと、今回のチケット。たった2回しか行っていない場所だけれど、ここは思い出がたくさん詰まったところだ。「ふっ……」2つのチケットを見て、思わず笑顔がこぼれる。名前は、案内用紙をもらうわけでもなく僕の手をひきながらズンズンと歩いていく。行く場所は、分かっていた。
「久しぶりだなあ、ここ…」
大トンネル。いつ見てもここは圧巻的だった。優雅に泳ぐ魚の群れ。ゆらゆら煌めく水。水面に反射する、照明の光。いつだって、ここは時が流れるのがゆっくりだ。
あの時と同じように、黙ってその光景を見ている名前。以前、この子はここで静かに自分の運命を受け入れていた。魚に憧れを抱きながらも、全てを諦めて、ただ静かにその決意を固めていた。儚くて、消えてしまいそうで、彼女は死んでしまうのだとはっきりと理解できてしまった。あの時と違うのは、それを、抗おうともがき始めていること。「生きたい」そう言ってくれたことが、まるで奇跡のように嬉しかった。ここに静かに佇んでいたその小さな存在を、世界を敵に回しても、世界の理の全てから外れても、守りたいんだ。生きていないといけない
「ねえ、無一郎くん」
あの時とは違う、どこかすっきりとした表情の名前がふと呟く。2人の手は繋がれたまま。水槽を眺めながら、目を逸らさないまま、彼女は続ける。
「生きたいって思えたのは、無一郎くんのおかげだよ。わたしに生きる希望を与えてくれた、大事な人」
「…うん」
「わたしのお願いは、無一郎くんと生きること。苗字家の運命なんて、捻じ曲げてしまいたい。最初の頃から随分とワガママになってしまったね」
「…そんなことないよ、嬉しい。何回も言ってるだろう。僕は、名前に生きていて欲しい」
「……」
「それ以外、いらないんだ」
繋がれた手をギュッと握る。同じような強さで握り返された、その温度に、幸せが込み上げてどうしようもなく泣きたくなるのだ。「無一郎くんも、同じ気持ち?」「もちろん」
「そっかあ…」
名前が息をつく。
「そっかあ。うん、そうだよね」彼女も同じ気持ちでいてくれたら嬉しいと、心から思う。誰かと思い合えるのは、奇跡だから。屈託のない表情、僕が大好きなあたたかい笑顔。愛しい、守りたい、女の子。
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それから2人でお土産屋さんに行った。「名前に似合うと思って」と、ごまアザラシの大きいぬいぐるみを買ってあげた。名前は大層恐縮していたけれど、ふんわりと沈むその触感に、全て感情が持っていかれたようで「無一郎くん〜ありがとう…安眠できそうだあ…えへへ気持ちいい〜」と締りのないへにゃりとした顔で笑っていた。宇髄さんへのお土産も、適当なサメの何かを買っておこうかな。2人で色々と物色し、もう一度手を繋ぎ直して、家路についた。そうやって、穏やかで、幸せな時は流れていった。
苗字名前の担当から外れることを伝えられたのは、その次の日だった。