優しい君の傷に触れたい


『無一郎』
『無一郎、ごめんな』

靄で包まれた世界の中。俺のまだ小さな手を、温かい何かが包んでいる。

『お前をずっと守ってやりたかった』

赤色が、慈しみをふんだんに込めてこちらを覗いている。

『お前の手、小さくて可愛いなあ。これからもずっと隣で見ていたかったなあ。……ごめんな、許してくれ』

優しい、優しすぎる瞳の色。確かに僕は、この瞳を知っていた。はるか昔の出来事だ。だから、忘れていたんだ。

『お前が、これからの長い人生の旅路で、お前らしく生きてくれることを心から祈ってるよ。俺は、いつでもお前のことを想っている』

一抹の寂しさを残して、微笑みながら遠ざかる影。迷いのない後ろ姿が、眼に焼き付いていた。


『……じゃあな、無一郎。どうか父さんを、許してくれ』


――そうなんだよ。忘れていたことを、思い出しただけなんだ。



『……夢を、見ていた気がする』

『夢?』

『うん。なんにも覚えていないけど、いつも見ているような気がして』

――名前、君も、僕と同じなんだろうか。


―――
――






「会ったよ」

宇隨さんは、思ったよりあっさりと、淡々と真実を僕に告げた。全てお見通しだとでも言うように、反射的に拳を強く握りしめた俺を、ただひたすら静かな瞳で見つめてくる。

「勘違いすんな。別に何か入れ知恵をした訳じゃねぇよ。ただ、お前さんがそこまで入れ込む女っていう奴は、一体どんなのか気になっただけだよ」

――そこで、ある日お前がいない時に、その娘を見に行ったんだ。隠れていたつもりだったが、案外呆気なく見つかってしまってな。俺の姿を見てすぐに「無一郎くんのお仕事仲間ですよね」って聞いてきたんだよ。あれは苗字家特有の鋭さなのか? 肝が据わった娘だよな。普通だったら、こんな丈のデケェ男、怖がるだろ。流石お前が入れ込むだけあるよ。面白くなって、誘われるがままに娘の家に行った。それでそこで、色々聞かれたんだ。

「聞かれたって、何を」
「お前がしようとしていることだよ」

「…」息が止まる。バレないように細心の注意は払っていたつもりだ。ボロを出すヘマもしていないはず。名前の前では、ただの“時透無一郎”でいたはずなんだ。

「……教えたんですか?」
「教えるはずないだろ。それはタブーだ。俺はお前を許すつもりはねぇ。今でもそれは変わらない。ただ、死神以前に、同じ男として、お前の気持ちは分かる。だから、お前の決意を裏切るような真似はしねぇよ」
「…宇隨さん…」

「ただ、あの娘はおそらく分かっているよ」

――名前が、僕の前から去った理由。それは、きっと。

「あの娘、俺にこう言ってきた。『聞いていたんです。それが違っていたらと願っていました。でも、合っていたんですね』とな。誰から聞いたのか、何の予想をしたのか、詳しくは話されてねぇよ。分かっているんだろうなと思ったのは、ただの俺の勘。でも、お前なら何となくあの子が何を思ったのか、分かるんじゃないのか?」

宇隨さんの話を聞いて、面白いくらい簡単に、その後の名前の行動理由が分かった。苗字家の人々が、長い歴史の中で幾度もその命を散らしてきた理由。身を滅ぼすことを分かっていながら、それでも止めようとしなかった理由。

そして、そんな長い歴史を持つ苗字家とは関係なしに、あの子に――ただの“苗字名前”に、俺が惚れた理由。なんですぐに分からなかったんだろう?

「……馬鹿な子」

呆れながらも、笑ってしまう。本当にお人好しで、どうしようもないくらいに人のことばっかりで、自分を後回しに後回しにしようとして、気がついたら傷ついているような子で。
そう、君は馬鹿なんだ。馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で、どうしようもない。
あの時ようやく本音を話してくれたじゃないか。震えながら、振り絞るように、贅沢なんかとは程遠い願いを一つ、俺に零してくれたじゃないか。それを一瞬といっていいほどの短期間で、捨ててしまうなんて。本当に馬鹿な子だよ、君は。

馬鹿で、お人好しで。だけど、どうしようもないくらいに、本当に君は。

「―――宇隨さんも、分かったでしょう? どうしようもないくらい、底抜けに優しい子なんですよ」

今も、この世界のどこかで、一人でその時を待っているんだろう。あの頃のように、ただ諦めるだけじゃなく。あの頃とは違う。不安も、寂しさも、悔しさも、今の君なら分かるだろう? それらを抱えながら、ただひたすらじっと耐えているんだろう?

「だから俺は、絶対に守りたいんです」

そんなの、僕が耐えられないんだよ。

「……お前、そんな顔もできるんだな」そう言った宇隨さんは、僕と同じような表情をしていた。「一緒だな、お前らはどっちも」呆れながら、同じように笑う。

「そう、同じなんですよ、僕ら。だから会わせてくれないですか?」
「そんな冷えきった笑顔で交渉してくんなよ。俺がめちゃくちゃ悪いヤツみたいに感じる」
「やだなあ、こっちからしたら人目のつかないところで勝手に逢引している人に、こんなに下手で出ているんですよ。まさか断るわけじゃないですよね?」
「こっえー。やっぱり天才死神様は迫力が違ぇわ」

「はいはい」と手をひらひら返しながらため息をつく宇隨さん。「酷い男だな、お前は」「分かってます」
名前、君の思いも覚悟も分かった上で、酷いことを言うよ。

――どうか僕を許してほしい。そして、どうか受け入れてほしいんだ。身勝手でしかない、僕の願いを。はじめての、僕の願いを。


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