朝方のかなり早い時間。朝焼けに照らされたばかりで、木々も草花も人さえも、まだ起きる途中。どこか夢のような儚さを持った時間。
僕は、ある場所に来ていた。
かつて、名前とスーパーの帰り道に寄った河原沿いの道。確かに自分の気持ちに何かが芽生えたあの日のことを思い出す。思い出しながらも迷うことはなく、僕は静かに足を進めていた。
ザッザッ…草を掻き分けながら、朝焼けに照らされた川のすぐ横にある道を歩いていく。そうしてしばらく歩いていると、ゆらり、目標地点を見失って蛇行した1機の紙飛行機が、弱々しく僕の足元に滑り落ちてきた。その紙飛行機を手に取り、前を向く。次の紙飛行機を飛ばそうと、姿勢を正して、腕を引きながら前方を見ている小さな影がそこにあった。
「……久しぶりだね、名前」
その瞳が、僕の水色のそれと静かに重なった。
「…うん、久しぶり。無一郎くんが来ること、なんとなく分かっていたよ」
紙飛行機を投げようとしたその手を静かにおろし、穏やかに笑う。「宇隨さん、怒られちゃったかな」数日ぶりに見た名前は、何も変わっていなかった。何も変わらない穏やかな表情で、僕を見つめていた。
「話したいことがあるんだ」
名前が折った紙飛行機を、飛ばして見せる。高く高く飛んだそれを、あの頃の名前は目を輝かせて喜んで見ていた。ちらりと紙飛行機に目を遣ると、すぐに僕の方を見る。もう、ただ死を待ちながらも無邪気に一緒にいたあの時間は、戻ってこない。それは僕も名前も、痛いくらいに分かっていた。
「うん、話そう」
名前は、一つ頷いて、また穏やかに笑った。
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河原沿いの道に、二人で腰をおろす。膝小僧を抱えながら座る名前の横に、一人分のスペースを空けて座る。寄り添って座ることはできなかった。名前も距離をつめることはなく、お互いがキラキラ光っている川を見つめていた。止まることのない川の流れが、何故か脳に焼き付いて離れなくなる。
そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。「あのね」おもむろに名前が口を開く。
「……わたし、懐かしい夢を見ていたの」
朝靄に包まれながら、どこか遠くを見ながら、憐れむような表情で、名前はその“懐かしい夢”について語り出した。僕の知っている君ではない、誰かが重なる。だけど、それもすぐに消え去って、そこには名前だけが残った。
「無一郎くんと出会ってから、何回か見ていた。男の人と女の人がいてね。どっちも幸せそうなのに、気がついたらどっちも泣いていて。不思議だなあって遠くから眺めているだけだった。だけど、無一郎くんを好きになればなるほど、生きたいって思えば思うほど、見る回数が増えてきて。無一郎くんが好きって言ってくれたあの日の夜も、見ていたんだよ。そんな夢を見ている内に、その人がわたしに声をかけてきた。それで、教えてくれたんだ。―――無一郎くんが、しようとしていること」
静かに笑みを浮かべながら、ポツリ。
「無一郎くん、死ぬつもりなんでしょう?」
名前は、確信をついた言葉を放ってきた。
「……すごいね、そんなところまで教えてくれるんだね」
隠すつもりも今更なかった。名前が取った行動を見て、宇隨さんからの話を聞いて、もう全てこの子は分かっているんだと気がついていたから。
懐かしい夢を見たと言っていた彼女に、誰か違う人を重ねたことがある。その誰かを、僕は知らない。知らないけど、分かっていた。これは、遠い過去、誰かの。
「……うん、教えてくれた。これって、初めてじゃないんだって」
だから驚くこともなかった。赤い瞳が、優しくも切ない笑顔が、脳内を掠める。何百年も前の記憶。彼女だけじゃない。僕も、彼女と同じく、懐かしい夢を―――記憶を、見ていたのだから。
「知ってるよ」僕がそう返すと、名前は大きな瞳を一度丸く開いて、すぐに困ったように笑った。「そうだよね。無一郎くんも、知っているよね」
「……でもね、教えてもらったからだけじゃないよ。わたし、その夢を見たあと、せめて最期に水族館に行きたいって思った。死ぬ前に、もう一度無一郎くんと、綺麗なあの場所に行きたいって思ったんだ。それで、あの時、無一郎くんに聞いたの」
―――
――
―
『わたしのお願いは、無一郎くんと生きること』
『名前に生きていてほしい。それ以外、いらないんだ』
『無一郎くんも、同じ気持ち?』
『もちろん』
『そっかあ……』
『うん、そうだよね』
―
――
―――
「あの時、無一郎くんの言葉を聞いて、確信した。わたし達は、同じ気持ちじゃないんだって」
あの時の名前の言葉に、そんな意図があったなんて気が付かなかった。彼女の言葉に、最期までのわずかな時間を一緒に過ごせることに、ただひたすら浮かれてしまっていたから。名前がその時何を思っていて、どんなに苦しい決断をさせてしまっていたか、全く知らなかった。あの時の自分を、殴りたい。彼女が人のことばかり考えてしまう子だって――考えて、考えて、考えすぎてしまう子だって、分かっていたはずなのに。
「だからわたし、もう無一郎くんといたらダメだって思った。すぐに離れなきゃって。嘘だと思いたかった。でも、分かっちゃったから、こうするしかなかった。……ねえ、なんでここに来ちゃったの?来なかったら、このまま死ぬのを待つだけだったのに」
「…」
「……ねえ、わたし達なんでこうなってしまったのかな?」
「……」
「教えてよ、無一郎くん……」
ポロリ、一粒の雫が彼女の頬を滑った。朝靄の中で、彼女が佇むその傍らで、彼女ではない女の人が泣いている。その人もきっと、僕の傍らの誰かを見ているのだろう。
そして、ときはまわります。
めぐって、めぐって。
もういちど、くりかえされるのです。
―――これは、遠い遠い昔から続く、まるで夢のような、儚い恋のお話。