09
キルアの脳裏に浮かんでいたのは、夜のリビングにいるナマエだった。
チョコを口に入れて、少しだけ目を丸くして。
「美味しい」と笑った、あの顔。
嬉しそうなのに、どこか壊れものみたいに儚かった、あの笑顔。
あんなふうに笑う子が。
あんなに小さくて、やわらかくて、少し触れただけでも壊れてしまいそうな子が。
大人たちに囲まれて、毎日泣かされて、痛めつけられて、兵器みたいに扱われていた。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。
――ふざけんな。
その言葉は、もはや思考ですらなかった。
怒りそのものが、黒い炎みたいに全身を焼いていた。
――あんなに小せえ身体の奴を。
――大人が寄ってたかって痛めつけて。
――泣かせて。
――兵器扱いしてた、だと?
暗殺者として叩き込まれてきた冷徹さも、計算も、その瞬間だけは何の役にも立たなかった。
そこにあったのは、もっと原始的で、もっとどうしようもなく純粋な怒りだった。
理屈じゃない。
許せない、という感情だけが、鋭い刃みたいに全身を貫いていた。
「……その組織の奴ら」
キルアが、ようやく口を開く。
声は低く、驚くほど平坦だった。
けれどその平坦さが、かえって底知れなく恐ろしい。
「今どこにいるの」
その目は、完全に光を失っていた。
そこにいたのは、仲間と笑っている時の少年じゃない。
甘いものを食べて耳まで赤くする年相応の男の子でもない。
人を殺すために育てられた者だけが持つ、昏い闇だった。
その異様な殺気に、ゴンがはっと息を呑む。
次の瞬間、慌てて立ち上がってキルアの肩に手を置いた。
「キルア、落ち着いて!」
その声に、キルアの身体がぴくりと揺れる。
一拍遅れて、彼はようやく我に返ったみたいに目を瞬かせた。
バチバチと荒れていた電撃のオーラが、少しずつ収まっていく。
凍りついていた空気が、ようやくわずかに緩む。
けれど、完全には消えなかった。
机の下で握られたキルアの拳は、あまりにも強く力が入りすぎていた。
爪が皮膚を突き破り、掌にじわりと血が滲んでいる。
それでも本人は、痛みなんて感じていないみたいだった。
クラピカが静かに目を伏せる。
レオリオは舌打ち混じりに息を吐き、ゴンはまだ心配そうにキルアを見ていた。
けれどキルアだけは、もう誰の顔も見ていなかった。
脳裏に焼きついて離れないのは、彼女の泣き顔ですらない。
むしろ逆だった。
深夜、自分の前でようやくこぼした、あの小さな笑顔。
あんなふうに笑えるまでに、どれだけの痛みを飲み込んできたのかと思った瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
守る、なんて言葉じゃ足りなかった。
そんな生ぬるいものじゃない。
もう二度と、誰にも触れさせたくない。
怖がらせたくない。
泣かせたくない。
彼女の過去ごと、全部まとめて壊してしまった連中を、この手で消してやりたいとすら思った。
その衝動の危うさを、キルア自身も分かっていた。
分かっていて、それでも止められなかった。
「……寝てるんだよな」
ぽつりと落ちた声は、ひどく掠れていた。
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分に言い聞かせるみたいに呟いただけだった。
今この瞬間も、ナマエは何も知らずに眠っている。
自分の過去がこうして暴かれていることも。
それを聞いた自分が、こんなふうに怒りで壊れかけていることも。
その事実が、妙に苦しかった。
眠っているあいだくらい、何も知らずにいてほしいと思った。
せめて夢の中だけでも、痛くなく、怖くなく、穏やかであってほしいと。
けれど同時に、その眠りを守れるのは自分でありたいと、強く思ってしまった。
それは優しさだったのか。
それとも、もっと昏く、独りよがりな執着の芽だったのか。
この時のキルアには、まだ分からなかった。
ただひとつ確かなのは、彼女の過去を知ってしまったこの夜を境に、キルアの中で何かが決定的に変わってしまったということだけだった。
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