01
最初にそれに気づいたのは、ほんの些細な偶然だった。
朝、窓を開けた部屋にやわらかい風が入り、白いカーテンがゆるく揺れていた。
テーブルの上では湯気の立つカップが小さく音を立て、その向こうでナマエが何気ない手つきで茶器を整えている。
その時、喉の奥で転がるような小さな音が、ふっと零れた。
歌というには曖昧で、鼻歌というにはあまりにも無意識だった。
短く、やわらかく、本人すら気づいていないような音の連なり。
キルアは一度だけそちらを見たが、ナマエは何事もない顔で湯気を見つめていた。
自分が今、音を零したことにすら気づいていないらしい。
だからその時は、ただ機嫌がいいのだろうと思っただけだった。
けれど、それは一度きりではなかった。
本を読み終えたあと。
窓辺で花を小瓶に挿している時。
街で見つけた小さな包みを、嬉しそうに膝の上で開けている時。
あるいは、差し出された温かい茶をひと口飲んで、ふっと肩の力が抜けた時。
決まって、ほんの少しだけ音が零れる。
同じ曲ではない。はっきりした旋律でもない。
その時々で違う、気まぐれのような、曖昧な鼻歌だった。
何度かそれを聞くうちに、キルアはようやく気づいた。
ナマエは、機嫌がいい時にだけ鼻歌を歌うのだと。
嬉しい時。
安心している時。
気持ちがほどけている時。
言葉にするより先に、そういうものが音になって零れてしまうのだろう。
それはあまりに無防備で、あまりに無垢だった。
一度、指摘しようとしたこともあった。
"今、歌ってた。"
そう言えば、ナマエはきっと驚くだろう。
それから少し考えて、恥ずかしそうに否定するかもしれない。
そして次からは、意識してしまう。
意識して、たぶんやめる。
そう思った瞬間、キルアは何も言わない方を選んだ。
聞こえても、気づかないふりをする。
いつも通りの顔をして、何も知らないみたいに黙っている。
そうしているうちに、それはいつの間にか彼の小さな習慣になった。
鼻歌が聞こえると、少しだけ動きを止める。
本をめくる手を止めることもある。
カップを持ったまま、そのまま数秒じっとしていることもある。
ほんの短い間だ。けれどその数秒を、キルアは毎回きちんと聞いていた。
邪魔をしたくない。
名前を呼ぶのも、何かを言うのも、少しだけ後回しになる。
その音が消えるまで、静かにそのままでいる。
まるでそれが、ナマエが安心している証のように思えているのかもしれなかった。
そして厄介なのは、ときどきその鼻歌が、自分の言動のあとに聞こえることだった。
たとえば、雨の夜。
外の音にナマエの肩がわずかに強張った時、キルアは何も言わず隣に座って、その手を取った。
冷えていた指先が少しずつ緩み、浅かった呼吸が落ち着いていく。
そうしてしばらくしてから、喉の奥で小さな鼻歌が零れた。
その瞬間、キルアの表情はほとんど変わらなかった。
けれど、目元だけがわずかにやわらいだ。
今ので安心したのだと、分かったのだろう。
自分が隣にいたこと。手を握ったこと。
それが、ナマエの緊張を少しほどいたのだと。
それはたぶん、思っていた以上に彼を満たした。
髪を撫でたあと。
温かい茶を渡したあと。
人混みでさりげなく庇ったあと。
眠れない夜に「いる」と短く返したあと。
少しして、あのやわらかい鼻歌が聞こえるたび、キルアはほんのわずかに目を細める。
表情に出る変化はそれだけなのに、そこには隠しきれない高揚があった。
ナマエの機嫌がいい。安心している。
しかも、その理由の端に自分がいるかもしれない。
その事実が、彼の胸の奥を静かに熱くする。
もちろん、そんなことは口にしない。
可愛いと思っていることも。
鼻歌が聞こえるたび、内心では少し浮かれていることも。
自分のしたことでその音が零れた時、ひどく満たされることも。
何ひとつ言わないまま、キルアはただ聞いている。
窓辺で花を整えながら、ナマエが今日も小さく鼻歌をこぼす。
何の曲かも分からない、途切れ途切れの、やわらかな音。
それを聞きながら、キルアは何も言わず、ただ少しだけ目を細めた。
その音が聞こえる時、ナマエはたいてい安心している。
ここにいていいのだと、身体の方が先に思っている。
キルアはたぶん、もうそれを知っている。
だから言わない。
無意識に零れてくるからいい。
そうして無防備にほどけた音を、黙って聞いていられるからいい。
それがいつの間にか、彼の密かな習慣になっていた。
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