02



機嫌がいい時に、自分が無意識に鼻歌を歌っているなんて、ナマエは少しも知らなかった。
だから最初のうちは、ただ不思議に思うだけだった。

ふとした瞬間に視線を感じることがある。
強いわけでも、鋭いわけでもない。
けれど確かに、こちらを見ている気配がする。

顔を上げると、たいていキルアがいる。
本を読んでいる風だったり、窓の外を見ている風だったり、いかにも何でもない顔をしているのに、目が合うとほんの少しだけ視線を逸らされる。

その反応があまりにもさりげなくて、気のせいかと思うこともあった。

でも、何度か続くうちに、ナマエはだんだん気になりはじめた。

たとえば、お茶を淹れている時。
湯気の向こうでカップを並べていたら、ふと背中に視線が触れる。
振り返ると、キルアは椅子に座ったままこちらを見ていた。
けれど目が合った瞬間、何事もなかったみたいに頬杖をついてそっぽを向く。

「……なに?」

そう聞いても、返ってくるのはいつも素っ気ない。

「別に」

その言い方があまりにもいつも通りで、ナマエはそれ以上追及できなくなる。
けれど、別に、で済ませるには少しだけ視線がやさしい気がして、余計に分からなくなる。

街を歩いている時もそうだった。
小さな店先に並んだ雑貨が可愛くて、思わず足を止めた時。
窓辺に飾られた花がきれいで、しばらく見入っていた時。
そういう、なんでもない瞬間に限って、キルアは妙に静かだった。

隣にいる気配はちゃんとあるのに、何も言わない。急かしもしないし、呆れたように笑いもしない。
ただ、少しだけ目を細めていることがある。

その表情が、ナマエにはよく分からなかった。

ある日、窓辺で花を小瓶に挿していた時のことだった。
陽の光がやわらかく差し込む午後で、風も穏やかで、なんとなく気分がよかった。
花の高さを揃えながら、ナマエはしばらくその色を眺めていた。

その時、また視線を感じた。

振り返ると、案の定キルアがこちらを見ている。
椅子に座って、本を開いたまま。
でもページはしばらくめくられていなかった。

「……また見てる」

思わずそう言うと、キルアが一瞬だけ目を瞬かせる。それから、少しだけ眉を寄せた。

「見てねーし」
「見てたよ」
「気のせい」

即答だった。
けれどその言い方が少しだけ早くて、ナマエはじっとキルアを見る。

「最近、たまにそうやって見てくる」

そう言うと、キルアは露骨に嫌そうな顔をした。
図星を突かれた時の顔だと、ナマエはもう知っている。

「……別に」

またそれだ、と思う。
けれど今日は、なんとなく引き下がりたくなかった。
花を持ったまま近づくと、キルアがわずかに視線を逸らす。
その反応がますます怪しい。

「何か変だった?」
「変じゃない」
「じゃあ何?」

問い詰めるみたいになってしまったのに、キルアはすぐには答えなかった。
少しだけ黙って、それから面倒くさそうに息を吐く。

「……お前さ」
「うん」
「機嫌いい時、たまに鼻歌うたってる」

ナマエは目を丸くした。

「え?」

思わず間の抜けた声が出る。
キルアは頬杖をついたまま、いかにもどうでもよさそうな顔をしていた。
でも耳の先がほんの少し赤い。

「うそ……」
「うそじゃない」
「わたし、歌ってた?」
「歌ってる。多分無意識で」

そんなこと、全然知らなかった。
驚いて少し考えてみるけれど、思い当たる記憶がない。
お茶を淹れていた時も、花を触っていた時も、ただ気分がよかっただけで、自分が音を零していたなんて気づきもしなかった。

「……やだ」

じわじわ恥ずかしくなってきて、ナマエは思わず顔を覆う。
するとキルアが小さく眉を寄せた。

「なんで」
「なんでって……恥ずかしい」
「別に変じゃないだろ」
「でも、気づいてなかったし……」

そう言うと、キルアは少しだけ黙った。
それから、何でもないことみたいに視線を逸らして言う。

「気にすんなよ」

その言い方が妙にやさしくて、ナマエは指の隙間からそっとキルアを見る。
キルアは本を開き直していたけれど、ページはやっぱり進んでいなかった。

「……いつから知ってたの?」

そう聞くと、キルアの手がぴたりと止まる。

「別に」
「またそれ」
「前から」
「前からって、いつ!」
「覚えてねーよ」

ぶっきらぼうな返事。
でも、それはつまり、かなり前から知っていたということだ。
ナマエは少しずつ、別の意味で頬が熱くなるのを感じた。

前から。ずっと前から。

自分が知らないうちに零していた鼻歌を、キルアは何度も聞いていたのだ。
しかも、言わなかった。
言おうと思えば、きっともっと早く言えたはずだ。 からかうことだってできた。
なのにそうしなかったのは、たぶん、わざとだ。

「……なんで言わなかったの」

むくれたまま小さく聞くと、キルアは本を見たまま答えた。

「言ったら、やめるだろ」

その一言に、ナマエは息を止める。

あまりにも自然に言われたから、一瞬意味を取りこぼしかけた。
けれど、遅れて胸の奥が熱くなる。

――言ったらやめると思った。だから言わなかった。

それはつまり、聞いていたかったということだ。

ナマエはしばらく何も言えなかった。
花を持ったまま立ち尽くしていると、キルアがようやくこちらを見る。
青色の瞳が、少しだけ気まずそうに揺れた。

「……何だよ」
「いや……」

うまく言葉にならない。
恥ずかしいのに、嬉しい。
知らないところでそんなふうに思われていたことが、くすぐったくて仕方ない。

キルアの表情が、悪いことがバレた時のような、少しだけ困っているように見えて、ナマエは思わず笑ってしまう。

するとキルアの耳がまた少し赤くなった。

「笑うなよ」
「だって」
「だってじゃない」

そのやり取りが可笑しくて、ナマエは肩を揺らす。
胸の奥がふわふわとあたたかい。
恥ずかしさはまだ消えないけれど、それ以上に、どうしようもなく嬉しかった。

自分でも知らない癖を、キルアだけが知っていたこと。
それを指摘せず、黙って聞いていたこと。
しかも、やめてほしくなくて黙っていたこと。

そんなふうに大事にされていたのだと、今さらみたいに分かってしまう。

ナマエは少しだけ迷ってから、花をテーブルに置いた。
それからキルアのそばまで行って、その袖をそっと引く。

「……んだよ」

まだ少し拗ねたみたいな声。
けれどナマエは小さく笑って、そのままキルアの肩にもたれた。

「これから気をつけようかなって思ったんだけどね」
「は?」
「やめた」

キルアが目を瞬かせる。ナマエはそのまま、少しだけ顔を上げた。

「キルアが聞きたいなら、やめない」

その瞬間、キルアの表情が止まった。
耳がみるみる赤くなる。

「……聞きたいとか言ってねーし」
「でも、やめると思ったから言わなかったんでしょ?」

図星だったらしい。
キルアは何も言わず、露骨に視線を逸らした。
その反応があまりにも分かりやすくて、ナマエはまた笑ってしまう。

すると次の瞬間、ぐいと腕を引かれた。

気づけば、キルアのすぐ隣に座らされている。肩が触れる。近い。

「……そんなに笑うなら、教えなきゃよかった」

低い声でそう言うくせに、離れる気はないらしい。
ナマエはその横顔を見上げて、やわらかく目を細めた。

「教えてくれてよかった」

そう言うと、キルアが少しだけこちらを見る。
その目が思ったよりやさしくて、胸がまたあたたかくなる。

「また歌ってもいい?」

からかうつもりはなかった。ただ、確かめたかった。

キルアは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐く。

「……好きにすれば」

ぶっきらぼうな返事。
でも、その耳はまだ赤いままだった。

ナマエは少しだけ笑って、そっと肩を寄せる。
するとキルアは何も言わず、そのまま離れなかった。

たぶん次からは、少しだけ意識してしまう。
鼻歌が出そうになった時、今キルアに聞こえているのかなと思うかもしれない。

それでも、やめたくないと思った。

黙って聞いていてくれた時間が、なんだかひどく愛しく思えたからだ。



その午後、窓の外の風はやわらかく、部屋には花の匂いが薄く漂っていた。
しばらくして、ナマエの喉の奥からまた小さな音が零れる。

今度は、自分でもちゃんと気づいていた。

隣にいるキルアは、本を開いたまま、何も言わない。
ただ、ページをめくる手が、少しだけ遅かった。







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