06



クラピカは、キルアの沈黙を急かさなかった。
しばらくの間を置いてから、静かに続ける。

「だが、それはお前が彼女を“過去のまま見ている”ということではない」

キルアの眉が、わずかに動く。

「むしろ逆だ。今の彼女を大切に思っているからこそ、過去との落差に耐えられない」

部屋の中は静かだった。
窓の外の気配すら遠く感じるほどに。

クラピカの言葉は、慰めのようでいて、ただ甘やかすものではなかった。
苦しみの形を、そのまま言い当ててくる。

「仮に、始まりに歪みがあったとしても」

その一言に、キルアの指先がぴくりと動く。

「それで、その後の選択まで誰かの記録に回収されるわけではない」

キルアは息を止めた。

始まりに歪みがあったかもしれない。
能力の影響。
恐怖の中で縋った先。
安全を与える対象への定着。
昨日見た記録は、確かにそう書いていた。

けれど。

「彼女の隣にいた時間も、彼女がお前を信じて手を伸ばした時間も、観察記録より軽いものではない」

クラピカの声は低く、揺るがなかった。

「誰かが分析した始まりより、その後にどう在ったかの方が、ずっと重い」

その言葉が、胸の奥のどこか深いところに落ちる。

足音に安心したこと。
声に落ち着いたこと。
眠りの中で手を探してくれたこと。

それら全部を、昨日の記録ひとつで汚されたくないと思った。
そう思っていたはずなのに、キルア自身が一番、そこに引っ張られかけていた。

ゴンが、そこでようやく小さく頷く。

「うん。オレもそう思う」

まっすぐな声だった。

「もし最初に何かきっかけがあったとしても、ずっと同じままじゃない」

キルアが視線を向けると、ゴンは少しだけ眉を寄せた。

「ナマエがキルアの足音で安心するのって、昨日急にそうなったわけじゃないよ。今までずっと、キルアがそうやって帰ってきてくれたからだろ」

その言葉に、昨夜の光景が浮かぶ。
扉を開けた時の、ほっとした顔。

“その音、好き。帰ってきたってわかるから、安心する”

あれは、昨日の記録の延長じゃない。
昨日までの積み重ねの先にあるものだ。

「声だってそうだよ」

ゴンは続ける。

「聞こえると落ち着くって言ったの、今のキルアにだろ。今までそうやって隣にいたから、そう言えたんじゃないの」

キルアは何も言えなかった
言い返せないからじゃない。
その通りだと、痛いほどわかるからだ。

レオリオが、深く息を吐く。

「ったく、ほんと面倒くせえな、お前」

ぶっきらぼうな言い方だったが、声音は少しだけやわらいでいた。

「お前が一番アイツに近えんだ。扱いはお前が決めたらいい」

キルアはゆっくり顔を上げる。
レオリオは腕を組んだまま、続けた。

「でも、その代わり条件がある」
「……条件?」
「一人で持つな」

即答だった。

「資料も映像も、お前ひとりで抱えるな。必要なもんはこっちでも預かるし、整理もする。お前が勝手に何度も見返して削れるのが一番馬鹿らしい」

少しきつい言い方だった。
けれど、そのきつさの奥にあるのが心配だとわかるから、反発する気にはなれない。

クラピカも静かに頷く。

「記録の管理はこちらで引き受ける。必要がない限り、お前の手元にも彼女の目にも届かないようにする」
「……必要がない限り、か」

キルアが低く返すと、クラピカは目を逸らさなかった。

「未来のことは断定しない方がいい。だが、少なくとも今は、見せることが彼女のためになるとは思えない」

その判断は、キルアの中でもほとんど固まっていた。
だからこそ、他人の口から同じ結論を言われることで、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。

「……あいつには見せねーよ。でも」

続く言葉は、昨日までより少しだけはっきりしていた。

「オレ一人で持つのも、やめる」

レオリオが小さく鼻を鳴らす。
ゴンはほっとしたように目を細めた。
クラピカは静かに頷く。

「それがいい」
「……あいつの知らない時間に引っ張られて、今のあいつまで変に見んのは、もう嫌だ」

その言葉を口にした瞬間、ようやく自分の中で何かが定まった気がした。

過去は消えない。
見たものもなくならない。
助けられなかった時間は、そのまま残る。

でも、その過去に引っ張られたまま、今のナマエの声や手まで受け取り損ねるのは違う。

クラピカが静かに言う。

「過去を消せなくても、今どう在るかは選べるさ」

短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。

キルアは目を閉じ、浅く息を吐く。

――選ぶ。
見たことをなかったことにはできない。
けれど、今をどうするかは、自分で選べる。

「……帰る」

ぽつりと落とした声に、ゴンが顔を上げる。

「ナマエのところ?」
「他にどこ行くんだよ」

ぶっきらぼうに返すと、ゴンは少しだけ笑った。
その笑い方が、ようやく少しだけいつもの空気に近くて、キルアもほんのわずかに肩の力を抜く。

レオリオが椅子にもたれたまま言う。

「今度はちゃんと戻れよ」
「……わかってる」
「わかってねえ顔してたから言ってんだ」
「うるせ」

反射みたいに返した言葉に、レオリオが鼻で笑う。
そのやり取りすら、少しだけ救いだった。
クラピカは最後に、落ち着いた声で言った。

「資料はこちらで管理する。お前は、今の彼女のところへ戻ればいい」

キルアは短く頷いた。
それで十分だった。



帰り道、太陽は真上に登っていた。

昨日と同じ道のはずなのに、足取りは少しだけ違う。
軽いわけじゃない。
見たものが消えたわけでも、整理しきれたわけでもない。
それでも、昨日みたいに、扉の前で立ち尽くしたまま動けなくなることはない気がした。

今のお前は、ここにいる。

昨夜、自分に言い聞かせた言葉を、もう一度胸の中でなぞる。

昔じゃなくて、今を見ろ。
足音も、声も、手も。
勝手に過去へ飛ばされるんじゃなくて、ちゃんと目の前のものを受け取れ。

そう思いながら扉の前に立つと、今度は迷わず手をかけた。
中へ入る。

「……おかえり」

昨日より少し控えめな声だった。
部屋の奥にいたナマエが、こちらを見る。

待っていたのはわかる。
でも、昨日の違和感がまだ少し残っているのか、様子をうかがうみたいな目をしていた。

その目を見た瞬間、キルアは意識して立ち止まらなかった。

昔じゃない。今だ。

「ただいま」

今度は、間を空けずに返す。

ナマエがほんの少しだけ目を見開いて、それから、わずかに表情をやわらげた。

その変化を、ちゃんと見る。
安心した呼吸。少し下がる肩。こちらへ向く視線。

キルアは靴を脱ぎながら、昨日みたいに視線を逸らさなかった。
近づいてくるナマエの足音も、差し出される体温も、そのまま受け取る。

「……今日は、早いね」
「まあな」

短く返してから、キルアは一瞬だけ迷い、でもその迷いを引きずらずに手を伸ばした。

ナマエの手を取る。

驚いたように、ナマエが瞬く。
けれど、振りほどくことはしない。
むしろ、そっと指先に力が返ってくる。

その感触を確かめるみたいに見つめてから、キルアはそのまま、ゆるく腕を引いた。

「……え」

小さく声を漏らしたナマエが、次の瞬間にはキルアの胸元へ引き寄せられる。

離れていた分を埋めるみたいに、静かに抱きしめる。
小さな温もりを腕いっぱいに感じると、無意識に、力がこもるのが分かった。

「キルア……?」

戸惑った声。
けれど、拒む響きはない。
キルアはナマエの肩口に額を寄せるみたいに少しだけ俯いて、低く息を吐いた。

「……悪かった」

ナマエの身体が、腕の中でわずかに揺れる。

「昨日、ちょっと変だった」

正直に言えるのはそこまでだった。
全部は話せない。
でも、何もなかったふりをするのも違う気がした。

しばらくして、ナマエの手が遠慮がちにキルアの服をつかむ。

「うん……少しだけ、そうかなって思った」

責める声じゃなかった。ただ、確かめるみたいなやわらかさだった。

「でも、怒ってるわけじゃないのはわかってた」

その言葉に、キルアは目を閉じる。

「……考えすぎてた」
「もう平気?」

胸元から聞こえる小さな声に、キルアは今度は迷わず頷いた。

「うん。……お前の顔見たら、ちゃんと戻れた」

その一言に、ナマエがそっと息を呑む気配がした。
それから、抱きしめられたまま少しだけ力を抜いて、安心したように額を預けてくる。

「……よかった」

本当に小さな声だった。

「少しだけ、さみしかったから」

その言葉に、キルアの腕に入る力がほんの少しだけ強くなる。

「悪い」
「ううん」

ナマエは首を振って、それからためらいがちに背中へ腕を回した。

「でも、今は平気」

その返事があまりにもまっすぐで、キルアはようやく胸の奥の張りつめたものがほどけていくのを感じた。

今、自分の腕の中にいるのは、ここにいるナマエだ。
怯えた映像じゃない。
自分を見上げて、触れ返して、安心したように息をつく、今のナマエだ。

見たものが消えたわけじゃない。
胸の奥にはまだ、昨日の冷たさが残っている。
それでも、それに引きずられたまま、このぬくもりまで見失うつもりはなかった。

今ここにあるものを、ちゃんと今のものとして受け取る。
そう決めて、キルアはそっと髪に額を寄せた。

「……ただいま」

ナマエが少しだけ笑う気配がした。

「おかえり」

しばらくそのまま、どちらも離れなかった。
急かす理由がなかった。
言葉を足しすぎる必要もなかった。
触れているだけで、昨日うまくできなかった分まで、少しずつ埋まっていく気がした。

ナマエの指先が、背中の服をきゅっとつまむ。
その小さな甘え方に、キルアは胸の奥がやわらかくなるのを感じる。

「……ほんとに、もう大丈夫?」

今度はナマエの方が、少しだけ顔を上げて聞いた。
近い距離のまま向けられる視線は、まだ少し不安を残しながらも、ちゃんとこちらを信じていた。

キルアはその目を見て、今度こそ逸らさなかった。

「ああ」

その言葉に、ナマエの瞳がわずかに揺れた。
それから、ほっとしたように目元をやわらげて、小さく頷く。

「……うれしい」

囁くみたいな声だった。

「わたしも、今のキルアにおかえりって言いたかったから」

その返事があまりにもまっすぐで、キルアは思わず息を止める。
それから、困ったみたいにほんの少しだけ笑った。

「なにそれ」
「ほんとのこと」

ナマエも少しだけ笑う。

その笑顔を見て、キルアはようやく、昨日から胸の奥に刺さっていた冷たい棘が、少しずつ抜けていくのを感じた。

キルアはもう一度だけ、確かめるみたいに抱きしめ直した。
今度はさっきより深く、でも苦しめないように。

ナマエも素直に身を預けてくる。
その体温が、ちゃんと今ここにあるものとして腕の中に収まる。

助けられなかった時間はある。
知らなかった過去もある。
消せないものは、たぶんこれからも消えない。

それでも。

知らない時間まで救えなくても、これから先を隣で受け取ることはできる。
足音に安心することも。
声に落ち着くことも。
こうして、自分の腕の中で力を抜いてくれることも。

過去に引っ張られて取りこぼすんじゃなく、今ここにあるものとして受け取っていく。
それが、今の自分にできることだった。

やがてナマエが、キルアの胸元に頬を寄せたまま、小さく言う。

「……お茶、飲む?」

その声音があまりにもいつも通りで、キルアはふっと息を漏らす。

「飲む」
「今日はちゃんとあったかいよ」
「昨日のまだ気にしてたのかよ」
「だって、冷めてたし……」

少しだけ拗ねたみたいな声に、キルアはほんのわずかに口元を緩めた。

「じゃあ、確認しに行く」
「確認ってなに」
「ちゃんとあったかいかどうか」
「もう、キルア」

呆れたような、でも安心した笑いが混じる。

それでもナマエはすぐには離れず、キルアの服をつまんだまま、もう少しだけその場にいた。
キルアも急かさなかった。
その小さな重みさえ、今はちゃんと愛おしい。

キルアは繋ぎ直した手に、ほんの少しだけ力を込める。
ナマエも何も言わず、同じだけ握り返した。







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