まだほどけない夜
その静けさは、特別なものには見えなかった。
花の匂いが薄く漂う午後。
窓の外を抜けるやわらかな風。
途切れ途切れの鼻歌と、紙の擦れる小さな音。
ただそれだけの、どこにでもありそうな時間だった。
けれど、キルアは知っていた。
こういう何でもない瞬間ほど、あとになって胸の奥に残るのだと。
安心している時にだけ零れる音。
隣にいることを疑わずに預けられる体温。
名前を呼べば、ちゃんと返ってくる声。
そういうものをひとつ受け取るたび、胸の奥では別の感情も静かに育っていく。
大事だと思うこと。
失いたくないと思うこと。
そして、失うかもしれないと知ってしまうこと。
信じる、というのは。
たぶん、やさしいことではない。
あたたかな手に触れても、不安が消えるわけではなくて、名前を呼ばれても、それだけで永遠が約束されるわけでもない。
誰かを大切に思ってしまった分だけ、失うことは前よりずっと怖くなる。
キルアは、そういう怖さを知っていた。
信じたいと願うたび、胸の奥に沈んだ昏い思いが、かすかに目を覚ますことを。
差し出されたぬくもりに縋りたくなるほど、いつかほどける瞬間を思ってしまうことを。
それでも、ナマエのそばにいる時間は、いつだって心が温まっていた。
隣にいる時間は、いつのまにか日々になっていた。
言葉を交わさなくても、そこにいるとわかるだけで、夜は少しやわらかくなる。
帰ってくる足音に気づくだけで、知らないうちに詰めていた息が、そっとほどけていく。
そんなふうにして、ひとりでいた頃には知らなかった安らぎが、静かに身体に馴染んでいた。
けれど安らぎは、ときどき祈りに似ている。
ここにいてほしいと願うこと。
帰ってきてほしいと願うこと。
その願いが深くなるほど、人はきっと、怖さを手放せなくなる。
この夜が、まだほどけていないこと。
隣にあるぬくもりが、たしかに自分の呼吸を静めてくれること。
キルアはただ、失いたくないものとして、ひとつずつ覚えはじめていた。
――これは、怖がりながら伸ばした手が、帰る場所を知るまでの話。
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