62



最初に気づいたのは、静かすぎる、ということだった。
 
耳を澄ませば、何も聞こえないわけではない。
遠くで風が窓を撫でるような音がして、どこかで木が軋むような気配もある。
けれど、それらはひどく薄くて、まるで厚い布を一枚隔てた向こう側の出来事みたいだった。
 
重たい眠りの底から、少女はゆっくりと浮かび上がる。
瞼を開けると、淡い光が視界に滲んだ。
 
天井、白い壁。
見慣れている、ような気がする部屋。
知らない場所ではない。
たぶん、ここで何度も眠って、何度も朝を迎えたことがある。
そういう輪郭だけは、ぼんやりと分かった。
 
けれど、その実感がひどく薄い。
 
自分の身体がベッドに沈んでいる感覚も、シーツの重みも、ちゃんとあるのに。頭の中のどこかだけが、すっぽり抜け落ちていた。
 
何かを忘れている。大事な何かを。
そう思うのに、何を失くしたのかが分からない。
 
息を吸う。
少し冷たい空気が喉を通る。
胸の奥が、理由もなくざわついた。
 
「……起きた?」
 
声がした。
 
はっとしてそちらを見る。
部屋の隅、窓際に寄せた椅子に、ひとりの少年が座っていた。
 
白に近い銀髪。
夜明けの光を受けて、輪郭だけが淡く浮いて見える。
こちらを見ている瞳は静かで、けれどその奥に、張りつめたものがあるのが分かった。
 
きれいなひとだ、と少女は思った。
それはひどく自然に浮かんだ感想だったのに、その次が続かない。
 
この人を、自分は知っている。
 
たぶん、よく知っている。
名前も、声も、きっと知っているはずだ。
なのに胸が、何ひとつ追いつかなかった。
 
本当なら、この顔を見た瞬間に安心しなければいけない気がした。
この声を聞いた瞬間に、張りつめていたものがほどけるはずだったような気がする。
でも実際には、ただ、分からないという戸惑いだけが先に立つ。
 
知らないわけじゃない。
けれど、知っているとも言い切れない。
そのずれが、ひどく怖かった。
 
少年はすぐには近づいてこなかった。
こちらの様子を見ながら、慎重に間を測るみたいに、少しだけ視線を和らげる。
 
「気分悪いとか、ある?」
 
落ち着いた声だった。
無理に安心させようとするでもなく、必要以上に明るく振る舞うでもない。
ただ静かに、こちらが答えやすい形で言葉を置いてくる。
 
少女は唇を開きかけて、少し迷った。
何をどう言えばいいのか分からない。
 
「……だいじょうぶ、だと、思う」
 
自分の声が、少しかすれていた。
喉が乾いているのかもしれない。
そういう小さなことは分かるのに、もっと大事なことが分からない。
 
少年が立ち上がる。
その動きに、少女の肩がわずかに強張った。
 
すると彼は、ぴたりと足を止めた。
その一瞬のためらいが、かえってこちらを落ち着かなくさせる。
 
「水、いる?」
「……うん」
 
短く答えると、彼は小さく頷いて、机の上のコップを取った。
近づいてくる足音は不思議なくらい静かで、けれど耳に残った。
 
差し出されたコップを受け取る。
指先が触れそうになって、ほんの少しだけ、どちらともなく避けるような形になった。
 
そのことに、少女は自分で傷つく。
 
どうして今、避けたのだろう。
避けたかったわけじゃない。
ただ、身体が勝手に迷った。
 
水をひとくち飲む。
冷たさが喉を落ちていって、少しだけ頭がはっきりする。
けれど、空白は埋まらないままだった。
 
コップを持ったまま、もう一度彼を見る。
やっぱり、知らない人ではない。
この人はきっと、自分にとって近い人だ。
大事な人なのかもしれない。
そう思うのに、その“かもしれない”が取れない。
 
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
 
「……わたし」
 
言いかけて、止まる。
何を確かめたいのか、自分でもうまく言葉にならなかった。
 
彼は急かさなかった。
ただ、こちらを見ている。待っている。
その待ち方が、妙に痛かった。
 
「オレのこと、分かる?」
 
静かな問いだった。
 
責める響きはない。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、頭の中の空白が急に輪郭を持った気がした。
 
分からないのだ。
たぶん、そこがいちばん大きい。
 
名前を聞けば思い出せるのかもしれない。
何かきっかけがあれば、すぐに元に戻るのかもしれない。
でも今この瞬間、少女はこの人を前にして、ちゃんと知っていると言えない。
 
それが、ひどく申し訳なかった。
 
喉の奥が詰まる。
謝るべきなのに、何に対して謝ればいいのかも曖昧で、余計に苦しい。
 
彼の瞳は、少しも逸れなかった。
逃がしてくれない、という意味ではなく、たぶん、逃げないでいてくれているのだと、少女は思った。
 
そのことすら、なぜだか泣きたくなる。
 
「……ごめん」
 
声が、ひどく小さくなった。
 
「あんまり……分からない」
 
言ってしまった瞬間、部屋の静けさがひとつ深くなった気がした。
 
彼は何も言わなかった。
驚いたようにも見えなかった。
ただ、ほんのわずかに息を止めたのが分かった。
 
それから、すぐに表情を動かさないまま、低く息を吐く。
 
「そっか」
 
たったそれだけだけ、責めるでもなく、取り乱すでもなく、ただ事実を受け止めるみたいに落ちた声。
 
けれど、その静かさの奥にあるものを、少女はうまく読めなかった。
読めないことが、また怖い。
 
彼はコップを持つ少女の手元を見て、それから視線を戻した。
 
「大丈夫。無理に何か言わなくていい」
 
大丈夫。そう言われたのに、少しも大丈夫な気がしなかった。
 
分からないことが、こんなにこわいなんて思わなかった。
自分の中にあるはずのものが抜け落ちているだけで、世界の輪郭まで薄くなる。
 
それでも、目の前の少年だけは、薄くならなかった。
分からないのに、見失えない。
 
そのことが、いっそう胸をざわつかせる。
 
窓の外で、風がまた小さく鳴った。
朝の光が少しだけ強くなって、彼の白い髪の端を淡く照らす。
 
少女はコップを握ったまま、うまく息を吸えずにいた。
この人は誰なのだろう。
自分にとって、どんな人だったのだろう。
 
たぶん、その答えを知ったら、ひどく安心する。そんな予感だけがある。
なのに、その安心へ続く道だけが、きれいに途切れていた。







戻る


top