63
太陽が昇るにつれ部屋の白い壁に落ちる明るさが増していくほど、かえって少女の中の空白は目立っていく。
眠気はもうほとんど残っていない。
頭も痛むわけではないし、熱がある感じもしない。
ただ、何か大事なものだけが、きれいに抜け落ちている。
少年はベッドのそばに椅子を引き寄せたが、近づきすぎることはしなかった。
手を伸ばせば届く距離より、少しだけ遠い。
こちらが息苦しくならない位置を測っているのが分かって、少女はそれにもまた、説明のつかない痛みを覚えた。
「少しだけ、聞く」
低い声だった。
問い詰めるためではなく、確かめるための声。
少女は小さく頷いた。
「名前、言える?」
自分の名前。
それは不思議と、すぐに口にできた。
舌に馴染んだ音として残っていたのだろう。
少女が答えると、彼はほんのわずかに肩の力を抜いた。
「今がいつ頃かは」
日付までは曖昧だったが、季節や、最近の流れのようなものはぼんやり分かる。
ここがどこかも、完全ではないにせよ、自分の居場所として口にすると、彼は「……そっか」と短く返した。
ひとつひとつ、確認される。
名前。場所。体調。
それらは答えられるのに、肝心なところだけが霧の向こうだった。
少女は膝の上で指先を握りしめた。
次に何を聞かれるのか、もう分かってしまっていた。
少年も、少しだけ黙った。
その沈黙が、かえってやさしかった。
たぶん彼は、どこまで聞くべきか迷っている。
それでも、聞かなければならないのだろう。
少女はそう思った。
分からないままにしておくほうが、きっともっと苦しい。
「……オレのことは」
やはり、その問いが来る。
少女は息を止め、目の前の彼を見る。
銀色の髪。
静かな目。
落ち着いた声。
さっきからずっと、こちらを追い詰めないようにしている気配。
知らない人ではない、それだけは、はっきりしている。
けれど、それ以上がない。
「分からない、っていうか……」
言葉を探しながら、少女は視線を落とした。
「知らないわけじゃないのに、ちゃんと分からない」
自分で口にしてみると、その曖昧さがいっそう苦しかった。
知らないなら、まだ簡単だったかもしれない。
最初から何もないのだと割り切れたかもしれない。
けれど実際には、何かがある。
あるのに届かない。
手を伸ばせば触れられそうなのに、指先の少し先で消えてしまう。
「大事な人なんだろうな、とは思うの」
少女はぽつりと続けながら、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「頭にある、そんな感じは、あるのに……実感が、なくて」
最後のほうは、ほとんど掠れた声になった。
彼はすぐには答えなかった。
否定もしないし、肯定もしない。
ただ、少女の言葉をそのまま受け止めるように黙っている。
その沈黙が責めているわけではないと分かるのに、少女は勝手に追い詰められていく。
自分がひどいことを言っている気がした。
大事な人だと頭では分かるのに、心がついてこないなんて、そんなの、相手からすれば十分すぎるほど残酷だ。
「……ごめんなさい」
また謝ってしまってから、少女は唇を噛んだ。
謝ったところで何も戻らないのに、謝らずにはいられなかった。
彼の眉が、ほんの少しだけ寄る。
「謝んなくていい」
短い声だった。
強く言ったわけではないのに、その一言だけ少し硬い。
少女は肩をすくめた。
謝るなと言われても、困らせている自覚だけははっきりある。
むしろ、それだけが妙に鮮明だった。
「でも……」
「いい」
今度は、さっきよりも静かだった。
押し返すというより、そこで止めるような言い方だった。
彼は一度視線を外し、窓のほうへ向けた。
朝の光がその横顔を薄く照らす。
感情を抑えているのが分かる顔だった。
取り乱してはいない。
けれど、平気でもないのだろうと、少女にも分かった。
それが余計につらかった。
「無理に思い出さなくていい」
その言葉に、少女は顔を上げた。
彼はもう一度こちらを見る。
静かな目だったけれど、その静けさは最初より少しだけ深い。
何かを飲み込んだあとの静けさだった。
「焦っても、たぶんしんどいだけだろ」
「でも……」
「分かんないなら、分かんないでいい」
言い切る声は、ぶっきらぼうなくらいまっすぐだった。
慰めの形をしていないぶん、かえって嘘がないように聞こえる。
少女はその言葉に、少しだけ息を詰めた。
――分からないままで、いい。
そんなふうに言われると思っていなかった。
もっと困らせると思っていた。
もっと、思い出してほしいと願われると思っていた。
それが自然だと思っていた。
なのに彼は、思い出せと言わない。
言わないまま、ただそこにいる。
そのことに救われる気持ちと、救われてしまうことへの後ろめたさが、同時に胸に広がった。
「……あなたは」
少女はためらいながら口を開いた。
呼び方が分からないけれど、名前を尋ねることすら、どこかひどく失礼なことのように思えた。
彼はその迷いに気づいたらしい。
少しだけ間を置いてから、短く名乗った。
「……キルア」
その名前は、耳に落ちた瞬間、少女の胸の奥をかすかに揺らした。
初めて聞く音ではない。
何度も呼んだことがあるような、そんな感覚だけが残る。
けれど、そこから先はやはり続かない。
少女はその名を小さく繰り返した。
口にすると、ひどく馴染む。
馴染むのに、遠い。
彼――キルアは、その様子を黙って見ていた。
期待しているようにも、していないようにも見える顔だった。
期待したいのを抑えているのかもしれない、と少女は思った。
「……ごめん」
また零れた謝罪に、今度こそ彼は小さく息を吐いた。
「だから、謝んなって」
呆れたような言い方だったが、怒ってはいない。
むしろ、その呆れ方に、長く知っている相手に向けるような響きが混じっていて、少女は少しだけ目を瞬いた。
自分は、前からこんなふうに何度も謝っていたのだろうか。
彼はそれを、こうして止めていたのだろうか。
そんな想像が一瞬だけ浮かんで、すぐに消える。
分からないことばかりなのに、分からないなりの気配だけが残るのが、もどかしかった。
キルアは椅子から立ち上がった。
「医者、呼んでくる」
その言葉に、少女の肩がわずかに揺れる。
ひとりになるのが急に心細くなったのか、それともこの場から逃げられることにほっとしたのか、自分でも分からない顔をした。
彼はそれを見て、扉の前で足を止めた。
「すぐ戻る」
たったそれだけだった。
けれど、その短い言葉が、妙に耳に残る。
少女は返事をするのが少し遅れて、それから小さく頷いた。
扉が開いて、閉まる。
足音が遠ざかっていく。
静かになった部屋の中で、少女は膝の上の手を見つめた。
自分の名前、場所、言葉も分かる。
なのに、いちばん大事なところだけが抜け落ちている。
キルア。
今しがた教えられたその名前を、心の中でそっとなぞる。
大事な人なのだろう、と頭では思う。
でも、その“大事”の中身が空っぽだ。
空っぽなのに、痛い。
何もないはずの場所が、失ったものの形にだけ疼いている。
少女はそっと目を伏せた。
思い出せないことよりも、思い出せない相手を前にしてしまったことのほうが、ずっと苦しかった。
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