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しばらくすると医者が来て、そこからいくつかの確認がされる。
光を目で追うこと、簡単な受け答え、痛みの有無、指先の動き。
少女は言われた通りにそれらをこなしながら、自分がまるで自分の輪郭を外側からなぞられているような気分になっていた。
大きな事件に巻き込まれたわけではない。
出かけているときに、荷物の落下に巻き込まれて頭を打ったが、命に関わるような異常はないらしい。
強い衝撃のあとに、一時的に記憶の一部が曖昧になることはある。

焦らせないこと。
無理に思い出させようしないこと。
そういった説明が、遠くで交わされる。
 
少女はベッドの端に座ったまま、それをぼんやり聞いていた。
言葉の意味は分かる。
理解もできる。
けれど、それが自分のこととして胸に落ちるまでに、少し時間がかかった。
 
医者が帰ったあと、部屋にはまた静けさが戻った。
キルアは何か言いたげにしていたが、結局「少し休め」とだけ言って、いったん部屋を出ていった。
 
ひとりになると、急に息がしやすくなる。
同時に、胸の中の空白も広がる。
 
少女はゆっくりとベッドを降りた。
足元は少し頼りないが、歩けないほどではなかったので、壁に手をつきながら、部屋の隅にある鏡の前まで行く。
映った顔は、自分のものだと分かる。
分かるのに、どこか他人行儀だった。
 
頬にかかる髪を指で払う。
その仕草さえ、馴染んでいるようでいて、少し遠い。
鏡の中の少女は、自分のはずなのに、今はまだ“自分そのもの”になりきれていなかった。
 
何が残っていて、何が抜け落ちているのか。
それを確かめたくて、少女は洗面台の脇に置かれていた小物や、棚の上の本、窓辺のカップに目を向けた。
どれも見覚えがないわけではない。
けれど、強く結びつく記憶がない。
 
自分の部屋なのだろう。
自分が使っていたものなのだろう。
そう思うたびに、胸の奥が少しずつ冷えていく。
 
そのとき、扉の外で物音がした。
反射的に振り返る。
部屋の前を通り過ぎるだけの気配だった。
 
なぜか少しだけ肩の力が抜けて、それからすぐに、自分が何に安堵したのか分からなくなった。
 
少女は鏡の前に戻り、自分を見つめる。
 
記憶が曖昧だというだけで、こんなにも輪郭が薄くなるものなのだろうか。
名前はある。身体もある。息もしている。
それなのに、自分が何でできていたのかが分からない。
 
そのとき、ふと、断片のようなものが浮かんだ。
 
――もう、使えない。
――前みたいには、できない。
 
言葉だけだった。
誰が言ったのか、いつのことなのかも分からない。
けれど、その響きには妙な既視感があった。
胸の奥に、古い傷を指でなぞられたような痛みが走る。
 
少女は眉を寄せた。
何のことだろう、と考えるより先に、身体が知っていた。
 
力が、ない。
 
その感覚は、記憶というより事実として落ちてきた。
あの言葉は、自分自身が感じたことを、言葉にしたものだった。
自分はもう、以前のような力を持っていない。
何か特別なものを、かなり前に失っている。
そういう理解だけが、遅れて胸に沈む。
 
念能力。
 
その言葉が浮かんだ瞬間、少女は小さく息を呑んだ。
そうだ、とまでは言えないけれど、間違っていない気がした。
自分はもう、それを失っている。
今さら確かめるまでもないほど、身体のどこかがそれを知っている。
 
鏡の中の自分を見る。
細い肩。頼りない腕。
何かを救えるような手には見えない。
 
記憶がない。力もない。
 
その二つが並んだ途端、胸の奥にあったざわつきが、はっきりした形を持ちはじめた。
 
では、自分には何が残っているのだろう。
 
少女は洗面台の縁に手をついた。
指先に力が入る。
けれど、その力はあまりにも小さい。
何かを壊せるほどでも、守れるほどでもない。
 
以前からそうだったのかもしれない。
力を失ってから、もう長いのかもしれない。
本当なら、その喪失を埋めるように積み重ねてきたものがあったのだろう。
誰かと過ごした時間や、失ったあとでも残ったものが。
 
でも今は、その“残ったもの”の記憶まで曖昧だ。
 
力を失っても、なお自分でいられた理由。
守られても、ここにいてよかった理由。
そういうものがあったはずなのに、それが見えない。
 
見えないまま、ただ「失った」という事実だけが残る。
 
少女は唇を噛んだ。
鏡の中の自分が、ひどく空っぽに見えた。
 
力もない。
記憶も曖昧。
では、自分は何なのだろう。
 
その問いは、まだ言葉になる前の痛みとして、静かに胸の底へ沈んでいく。
混乱だけではない、もっと冷たくて、もっと長く尾を引くもの。
自分の価値そのものが、足元から少しずつ崩れていくような感覚だった。
 
扉が控えめに叩かれた。
 
少女ははっとして顔を上げる。
返事をするより先に、キルアが少しだけ扉を開けた。
 
「入る」
 
確認というより、予告に近い言い方だった。
彼は手に温かい飲み物の入ったカップを持っている。
少女が鏡の前に立っているのを見ると、ほんのわずかに目を細めた。
 
「立ってて平気?」
「……うん」
 
答えながら、少女は無意識に鏡から少し身を引いた。
見られたくない、と思ったのかもしれない。
空っぽに見える自分を。
 
キルアはそれ以上何も言わず、カップを洗面台の脇に置いた。
湯気が細く立ちのぼり、やさしい匂いがした。
 
「熱いから、気をつけろ」
 
それだけ言って、彼はすぐには出ていかなかった。
けれど近づきもしない。
ただ、少女がふらつかないかだけを見ているような距離で立っている。
 
その気配が、ありがたくて、苦しい。
 
少女はカップに手を伸ばしかけて、ふと止まった。
温かさに触れたら、何かがほどけてしまいそうな気がした。
 
記憶がなくても、力がなくても、この人はたぶん、こうして何かを差し出してくれるのだろう。
 
そのことが、救いではなく、今はまだ痛みとして胸に刺さる。
 
受け取る理由が、自分の中に見つからない。
何も返せる気がしない。
 
少女は視線を落としたまま、小さく「ありがとう」と言った。
その声は、自分でも驚くほど弱かった。
 
キルアは少しだけ黙ってから、「別に」と短く返した。
いつもの癖みたいな言い方なのだろう、と少女はなぜか思ったが、そう思えること自体が、また不思議だった。
 
部屋の空気は静かだった。
けれどその静けさの下で、少女の中にはもう、はっきりとした亀裂が入りはじめていた。
 
記憶がないだけではない。力もない。
そのうえで、自分がここにいる意味まで見失ったら――いったい何が残るのだろう。






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