65
ずっとベッドの上にいるのも落ち着かず、少女は窓際の椅子に移ろうとした。
ほんの数歩の距離だ。
体調も悪くないし、立ち上がるくらいなら問題ないはずだった。
それでも、ベッドから足を下ろした瞬間、床が少し遠く感じた。
身体が重いわけではない。
ただ、自分の感覚と動きが、ほんのわずかに噛み合っていない。
少女が無意識に息を詰めた、そのときだった。
視界の端に、すっと手が差し出される。
白い指。細いのに、迷いのない手。
あまりにも自然な動きだった。
考えるより先に出たもののように見えた。
たぶん、前なら――前の自分なら、何も迷わずその手を取っていたのだろう。
そう思ったのは、記憶ではなく感覚だった。
この手を取ることは、きっと特別なことではなかった。
助けられることにいちいち身構えず、触れることにもためらわず、もっと当たり前にそこにあったはずだ。
けれど今の少女には、その“当たり前”がない。
差し出された手を見つめる。
取ればいいだけなのに、身体が一瞬、止まった。
触れていいのか分からない。
この距離に甘えていいのか分からない。
自分はこの手を、どんな顔で取ればよかったのかも分からない。
ほんの一瞬だった。
けれど、ためらいとしては十分すぎる長さだった。
少女が指先を動かすより先に、キルアは何でもない顔で手を引っ込めた。
「……悪い」
そう言って、視線を逸らすでもなく、ただ半歩だけ位置をずらす。
代わりに、ベッドの脇に置いてあった薄い上着を取って、椅子の背にかけた。
「ゆっくりでいい」
声はいつも通り静かだった。
何もなかったことにするみたいに、自然だった。
その自然さが、少女には余計につらい。
彼は気づいたはずだ。
自分がためらったことに。
差し出された手を、すぐに取れなかったことに。
それなのに、何も言わない。傷ついた顔もしない。責めもしない。
ただ、見なかったことにしてくれる。
そのやさしさに、少女は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。
「……ごめん」
また、謝罪が零れる。
キルアは小さく眉を寄せたが、今度は「謝るな」とは言わなかった。
言っても無駄だと思ったのかもしれない。
あるいは、今の少女にそれ以上言葉を重ねるほうがしんどいと分かったのかもしれない。
少女は自分で身体を支えながら、ゆっくり立ち上がった。
数歩進くだけなのに、妙にぎこちない。
椅子まで辿り着いて腰を下ろすと、ようやく小さく息を吐けた。
窓の外には、淡い昼の光が広がっている。
木々が風に揺れて、その影が床にゆっくりと落ちた。
キルアは少し離れた場所に立ったまま、少女の様子を見ていた。
近くに来すぎない距離だけれど、目を離しもしない。
その距離の取り方が、ひどく慎重で、ひどく慣れているように見えた。
少女は膝の上で手を握りしめた。
さっき差し出された手の感触を、まだ触れてもいないのに覚えている気がした。
取れなかった。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に小さな棘みたいに残っている。
自分でも、どうしてためらったのか分からない。
怖かったわけではないし、嫌だったわけでもない。
むしろ逆だった。
たぶん、あの手に触れたら少し安心してしまう気がして、それがこわかった。
安心する理由を、自分は知らない。
知らないまま受け取るには、そのぬくもりはあまりにも近すぎた。
「……何か、いる?」
不意にキルアが訊いた。
少女は顔を上げる。
彼は窓辺ではなく、扉の近くに立っていた。
いつでも出ていける位置。こちらが息苦しくならないようにしているのだと分かる。
「ううん……大丈夫」
答えると、彼は少しだけ頷き、それ以上は踏み込まない。
少女はそのまま窓の外を見た。
風が枝を揺らすたび、葉擦れの音がかすかに届く。
穏やかな昼だった。
何も起きていないような、静かな時間。
なのに、自分の中だけがうまく静まらない。
差し出された手を取れなかったこと。
その一瞬を、彼が見逃さなかったこと。
見逃さなかったのに、何も言わなかったこと。
どれも小さなことのはずなのに、少女の胸には重く残った。
もし本当に、大事な人なのだとしたら。
もし本当に、自分がこの手に何度も助けられてきたのだとしたら。
今のためらいは、どれほど彼を傷つけただろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
けれど同時に、少女は気づいてしまう。
あの手が差し出されたとき、自分は拒みたかったわけではない。
ただ、どう触れればいいか分からなかっただけだ。
分からない。
分からないことばかりなのに、傷つけたくないと思う気持ちだけは、妙にはっきりしている。
それがいっそう苦しかった。
キルアが机の上のカップを片づける。
陶器の触れ合う小さな音がして、それからまた静けさが戻る。
少女は窓に映る薄い自分の影を見つめた。
輪郭の曖昧な顔。所在なさげな目。
ここにいるのに、まだどこにも立てていないような自分。
その背後に、少し離れて立つ少年の姿が映る。
近くはない。遠すぎもしない。
手を伸ばすれば届くかもしれないのに、今はまだ、その距離がひどく遠かった。
少女はそっと視線を伏せた。
取れなかった手のことを、たぶん彼も忘れない。
自分も忘れられない。
何でもない顔をしてやり過ごしたその一瞬に、言葉にならない距離が生まれてしまった気がした。
そしてその距離に、いちばん傷ついているのが自分自身なのだと、少女はようやく知った。
←|→
戻る