66
夜、灯りを落とした部屋の中で、少女はベッドに横になったまま、じっと天井を見つめていた。
昼間より静かなはずなのに、夜になると、かえっていろいろなものが耳につく。
窓の外を渡る風の音。
木の枝が擦れる気配。
遠くで何かが軋むような、小さな物音。
眠くないわけではなかった。
身体は疲れているし、目を閉じればそのまま沈んでいけそうな重さもある。
けれど、意識だけがうまくほどけない。
目を閉じるたび、頭の中の空白が広がっていく。
思い出せないこと、分からないこと。
自分が何を失くしているのか、どこまで失くしているのかも曖昧なまま、ただ胸の奥だけがざわついていた。
昼間は、まだよかった。
光があって、誰かの気配があって、確認すべきことがいくつもあったからだ。
けれど夜は違う。
静かで、何もすることがなくて、そのぶんだけ、自分の中の空っぽな場所がよく見えてしまう。
少女はシーツを少しだけ引き寄せた。
温かいはずなのに、指先が落ち着かない。
ここは知らない場所ではない――そう思える程度の見覚えはある。
ベッドの硬さも、窓の位置も、扉の向こうに続く廊下の気配も、まったく初めてではない。
なのに、安心できなかった。
安心の仕方を忘れてしまったみたいだった。
小さく息を吐く。
眠らなければと思うほど、胸の奥が冴えていく。
そのとき、廊下の向こうで、かすかな音がした。
足音だった。
ひとつ、ふたつ、急がず、重すぎず、けれど迷いのない歩き方。
床板を鳴らしすぎない、静かな足取り。
その音が耳に届いた瞬間、少女ははっとして息を止めた。
誰かが歩いている――それだけのことなのに、胸のざわつきがほんの少しだけ緩む。
足音は扉の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかるかと思ったが、少し先で止まった。
何かを置くような小さな物音がして、それからまた、ゆっくり戻ってくる。
少女は自分でも気づかないうちに、シーツの端を握っていた。
耳が、その音を追っている。
やがて足音は扉の前で止まった。
中に入ってくる気配はない。
ただ、向こう側に誰かがいると分かるだけの静けさが、そこにあった。
不思議なくらい、それだけで呼吸が少し楽になった。
少女は目を瞬いた。
どうしてだろう、と考えるより先に、身体が先に反応している。
さっきまで胸の奥を占めていた落ち着かなさが、ほんの少しだけ薄くなっていた。
扉一枚隔てた向こうに、誰かがいる。たぶん、キルアだ。
そう思った瞬間、理由の分からない安堵がじわりと胸に広がる。
思い出したわけではない。
何かを確信したわけでもない。
ただ、その足音を知っている気がした。
知っている、というより、身体が覚えている。
少女はゆっくりと身を起こした。
暗がりに目が慣れて、扉の輪郭がぼんやり見える。
向こう側に人影があるわけではないのに、そこにいると分かる気がした。
「……キルア」
小さく呼んでみる。
声に出した瞬間、自分でも少し驚いた。
呼ぶつもりはなかったのに、名前が先に零れた。
すぐに、扉の向こうで気配が動く。
「起きてたのか」
低い声が、木の板越しに届く。
昼間と同じ声なのに、夜の静けさの中では少しだけ近く聞こえた。
少女は返事をするまでに、少し間が空いた。
何を言えばいいのか分からない。
眠れない、と言うのも、呼び止めたみたいで気が引ける。
「……ごめん」
結局、最初に出たのはそれだった。
向こうで、短く息を吐く気配がする。
呆れているのかもしれない。
けれど、その気配はどこか慣れていた。
「何で謝んだよ」
声は低いままだったが、昼間ほど硬くない。
少女は答えられず、膝を抱えるようにして座り直した。
「眠れないのか」
「……少し」
「そっか」
それだけのやり取りなのに、不思議と胸が落ち着いていく。
扉を開けて入ってくるわけではない。
無理に様子を見に来るわけでもない。
ただ、向こうにいて、声を返してくれる。
その距離が、今の少女にはちょうどよかった。
「水、持ってくる?」
聞かれて、少女は少し迷った。
何かを頼めば扉が開いて、彼が入ってくる。
そう思うと、なぜかそれを望んでいる自分と、ためらう自分が同時にいた。
「……ううん、大丈夫」
「分かった」
無理に勧めない返事だった。
必要なら言え、という余白だけを残して、押しつけてこない。
少女はそのまま、扉のほうを見つめた。
向こう側にいる気配は、まだ消えない。
たぶん、すぐには離れないつもりなのだろう。
どうしてそんなことが分かるのか、自分でも分からない。けれど、分かる気がした。
夜の静けさの中で、自分の呼吸が少しずつ整っていくのを感じる。
さっきまであんなに落ち着かなかったのに、今は胸のざわつきがゆるやかにほどけていく。
理由は分からない。思い出したわけでもない。
それでも、この足音と、この声が近くにあるだけで、少し眠れそうだと思ってしまう。
そのことに、少女は戸惑った。
記憶はない。
この人が自分にとってどれほど大事だったのかも、まだちゃんとは分からない。
なのに身体だけが、先に安心してしまう。
まるで、自分の知らないところで、ずっと覚えていたみたいに。
少女はそっと布団に潜り直した。
扉の向こうの気配は、まだそこにある。
「……キルア」
もう一度、小さく呼ぶ。
「ん?」
「……そこに、いるの?」
問いというより、確かめるような声だった。
向こうで少しだけ間があって、それから短い返事が落ちる。
「いる」
たった一言。
それだけで、胸の奥にあった不安が、少しだけほどけた。
少女は目を閉じた。
暗闇の中でも、扉の向こうに誰かがいると分かる。
そのことが、こんなにも心強いなんて知らなかった。
知らなかったはずなのに、身体は知っている。
この足音が遠ざからない夜なら、少しは眠れることを。
少女は自分でも理由の分からないまま、ゆっくりと息を吐いた。
まぶたの裏の暗さが、さっきよりもやわらかい。
扉の向こうにいる少年は、何も言わない。
ただ、そこにいる。
それだけでいいのだと、身体のどこかが先に思い出していた。
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