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次の日の朝。
目覚めてもすぐにここかどこかが分からず、次に、(ああ、自分は忘れているんだっけ)と遠い思考が過る。
まだ、白昼夢にいるような、不思議な感覚。
少女は部屋を出る前に少しだけためらったが、空腹を自覚してしまうと、いつまでも閉じこもっているわけにもいかなかった。
昨夜は思ったより眠れた。
深くではないにせよ、少なくとも、ひとりで朝を迎えたような気はしない。

廊下を進み、台所の入口で足を止める。
中にはキルアがいた。
背を向けたまま、何かをテーブルに並べている。
その動きは無駄がなく、ここでこうして朝の支度をすることが、特別なことではないのだと分かる。

少女が立ち尽くしていると、彼は振り返らないまま言った。

「起きたなら入れよ」

気づかれていたらしい。
少女は少しだけ目を瞬いてから、「……うん」と小さく返した。

台所に入ると、温かい匂いがした。
焼いたパンと、薄い茶葉の香り。
胃の奥がきゅっと動き、食べられそうだと思ったことに、少女は少しだけ安堵した。

テーブル上には、簡単な朝食が二人分並んでいた。
多すぎず、少なすぎず、今の自分でも無理なく口にできそうな量だった。
パンは食べやすいように小さめに切られていて、添えられた果物も、手を汚さずに取れるようになっている。

気づかいが細かい。
けれど、細かいのに、それを押しつけてこない。

キルアは椅子を引くでもなく、座れとも言わない。
ただ、自分の分のカップを持ちながら、顎でテーブルのほうを示した。

「冷める前に食え」

ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、そこには“食べろ”という圧がない。
用意はしてある、あとは自分で決めろ、という置き方だった。

少女はそっと椅子に腰を下ろした。
目の前の皿を見つめてから、静かに「……ありがとう」と言うと、キルアは自分のカップに口をつけたまま「別に」とだけ返した。
その返し方が、どこか昨夜と同じで、少女は少しだけ胸の奥がゆるむのを感じた。

パンをひとくち食べる。
温かくて、やさしい味がした。
空腹だったのだと、そこでようやくはっきり分かる。

少女が黙って食べているあいだ、キルアも余計なことは言わなかった。
体調はどうだとか、食べられるかとか、そういう確認すら必要以上にはしない。
ただ、向かいに座って、自分も同じように朝食を取っている。
その自然さが、ありがたかった。

もしこれが、もっと過剰な世話だったら、少女はきっと息苦しくなっていただろう。
食べられるかと何度も聞かれたり、無理するなと繰り返されたり、ひとつひとつ手を貸されたりしたら、今の自分は本当に空っぽになってしまう気がする。
記憶も曖昧で、力もない。
そのうえ何から何まで世話をされてしまったら、自分でいる場所まで失くしてしまいそうだった。

けれどキルアは、そこまで踏み込まない。
必要なものは置いておくけれど、選ぶ余白は残す。
その距離感に、少女は少しだけ救われていた。

「薬、あとで飲め」

食事が半分ほど進んだころ、キルアが言った。
テーブルの端には、小さな包みがひとつ置かれている。

「食ったあとでいい。そこ置いとく」

それだけ言って、彼はそれ以上勧めなかった。
飲み忘れるなとも、今すぐ飲めとも言わない。
必要なことだけを伝えて、あとは少女に委ねる。

少女はその包みを見つめた。
こんなふうにされると、自分でちゃんとしなければと思える。
子ども扱いされていないことが、思った以上にありがたかった。

「……前から、こうだったの?」

気づけば、そんな言葉が零れていた。

キルアが視線を上げる。少女は少しだけ迷ってから続けた。

「その……あなたが、こういうふうにしてくれるの」

聞きながら、自分でも妙なことを聞いていると思った。
けれど知りたかった。
彼のこの距離感が、昔からそうだったのか、それとも今の自分に合わせて変えているのか。

キルアはすぐには答えなかった。
カップをテーブルに置き、少しだけ視線を逸らす。

「……どうだろーな」

曖昧な返事だった。
はぐらかしたというより、簡単には言えないことを飲み込んだような間があった。

「前は、今よりうるさかったかも」

その言い方に、少女は思わず顔を上げた。
キルアは少しだけ口元を歪める。
笑ったというほどではない、ごく薄い表情だった。

「でも今は、別に。必要なら呼べばいい」

必要なら呼べばいい。

その言葉は、昨夜の「いる」と同じくらい、静かに胸に残った。

少女は視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。
前は今よりうるさかった。
その短い言葉の中に、知らない時間がある。
自分の知らない彼と、自分の知らない自分がいることに、少しだけ胸が痛んだ。
けれど同時に、今の彼が“今”を選んでいることも、なんとなく分かった。

思い出させようとしない。
以前と同じように扱おうとしすぎない。
今の自分が息をしやすいように、少しだけ距離を置いてくれている。
それはたぶん、簡単なことではない。

少女はパンをもうひとくち食べた。
温かさが胃に落ちていく。
さっきより少しだけ、身体の内側が落ち着いていた。

「……おいしい」

ぽつりと言うと、キルアは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、いかにもどうでもよさそうな顔で「そ」と返す。
けれど、その返事のあとに、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのを、少女は見逃さなかった。

台所の窓の外で、風が木を揺らす。
朝の光は穏やかで、テーブルの上の湯気ももう薄くなっていた。

少女はカップを両手で包み込んだ。
温かい温度が、今の自分にはちゃんと届く。

記憶はまだ戻らない。分からないことも多い。
けれど、目の前に置かれた朝食を自分で食べて、必要なものを必要なだけ受け取って、それで少しだけ楽になっている。
そのことが、思っていたよりずっと大事な気がした。

キルアはもう何も言わず、自分の分を食べ終えて立ち上がった。
食器を片づける音がする。
少女が慌てて立とうとすると、彼は振り返らないまま言った。

「そのままでいい」
「でも……」
「まだふらつくだろ」

言い方は素っ気ない。
けれど、命令ではなく事実を置くような声だった。

少女は立ちかけた身体を止める。
手伝えないことに少しだけ後ろめたさを覚えたが、それ以上に、無理を見抜かれていることが不思議だった。

彼は食器を流しに置きながら、続ける。

「必要なことがあったらその時に頼む」

その一言で、少女の胸の中の引っかかりが少しだけほどけた。
今は座っていていい。
けれど、何もさせないわけではない。
その線引きが、やさしかった。

少女は小さく「うん」と答えた。
キルアはそれに振り返りもせず、水を流す音の中で「ん」とだけ返す。

その何でもなさが、少しだけ心地よい。

説明ではなく、生活の中で渡される余白。
守られているのに、閉じ込められてはいない距離。

少女はカップの残りを飲み干しながら、ぼんやりと思った。
この人のそばにいると、自分が全部なくなってしまうわけではないのかもしれない、と。

まだ、ほんの少しだけ、そう思えただけだったけれど。






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