68



ずっと同じ場所にいると、かえって身体が固まる。
医者にも、無理のない範囲で動いたほうがいいと言われていた。
ほんの短い距離でも、廊下を往復するだけでも構わない。
そう言われて、少女は小さく頷いたものの、いざ部屋の外へ出るとなると、やはり少し緊張した。

扉を開けると、廊下には昼の静かな光が落ちていた。
窓から差し込む明るさが床に細長く伸びて、風が吹くたび、外の木々の影がゆっくり揺れる。

キルアは少女の半歩前を歩いていた。
近すぎず、遠すぎず、振り返ればすぐに視界に入る距離。
手を貸すとも言わないし、支えるとも言わない。
ただ、必要になればすぐ動ける位置を自然に取っている。

少女はその背中を見ながら、ゆっくり足を進めた。
歩けないわけではない。
けれど、身体の感覚がまだ少しだけ頼りない。
床を踏むたび、自分の重心がどこにあるのかを確かめるような歩き方になる。

廊下の角を曲がるとき、キルアが少しだけ歩幅を緩めた。
待つ、というほど露骨ではないけれど、少女が遅れても置いていかれない速さだった。

そのさりげなさに、少女はまた胸の奥を小さく揺らされる。
気づかれないように気づかれている。
守られているのに、見張られている感じはしない。
そんな距離だった。

「平気?」

前を向いたまま、キルアが訊く。

「……うん」

答える声は、思ったよりちゃんと出た。
それでも、自分の足取りに自信があるわけではない。
少女は壁際の光を見ながら、慎重に歩いた。

そのとき、床のわずかな段差に足先が引っかかった。

ほんの小さなものだった。
転ぶほどではないけれど、身体が一瞬だけ大きく傾く。
息を呑むより先に、少女の手が動いた。

掴んだのは、キルアの服の袖だった。

自分でも、掴むつもりはなかった。
ただ、身体が勝手にそこへ伸びた。
迷うより先に、いちばん近くて、いちばん頼っていい場所を知っていたみたいに。

布越しに伝わる感触は、思ったよりしっかりしていた。
その瞬間、少女の身体はようやく止まる。

「……っ」

小さく息を詰めて、少女は顔を上げた。
キルアはすでに足を止めて振り返っている。
驚いたような顔はしていなかった。
ただ、少女の手元を一度だけ見て、それから何も言わずに視線を戻す。

少女はそこでようやく、自分が何をしたのか理解した。

掴んでいる。
自分から、この人に触れている。

熱が一気に頬へ集まる。少女は慌てて手を離した。

「ご、ごめ……」

言いかけて、またその言葉かと自分で思う。
けれど他に何を言えばいいのか分からない。

キルアは一瞬だけ眉を動かしたが、結局何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ立ち位置を変える。
少女のすぐ前ではなく、隣に近い位置へ。

「……ゆっくりでいい」

低い声が落ちる。
責めるでもなく、気にするなと慰めるでもなく、ただ今必要なことだけを言う声だった。

少女は小さく頷いた。
胸がまだ少し速く打っている。

どうして掴んだのだろう。
転びそうになったから、というだけではない気がした。
咄嗟に伸びた手が迷わず彼の袖を選んだことが、少女にはひどく不思議だった。

嫌ではなかった。
むしろ、触れた瞬間に身体の強張りが少しほどけた。

そのことに気づいてしまって、余計に戸惑う。

二人はまた歩き出した。
今度はさっきよりもゆっくりだった。
キルアの歩幅が、明らかに少女に合わせて落ちている。
けれど彼は、それをわざわざ示さない。
あくまで自然に、最初からそうだったみたいな顔で歩いている。

少女はその横顔を盗み見た。
何も言わない。
さっき袖を掴んだことにも触れない。
触れないまま、ただ少しだけ歩く速さを変えてくれる。

その沈黙がありがたくて、少しだけ苦しい。

もし「今、掴んだ」と言われたら、きっともっと恥ずかしかった。
もし「大丈夫か」と必要以上に気づかわれたら、たぶん惨めになっていた。
でも彼はどちらもしない。

何も言わないまま、少女がもう一度ふらついてもすぐ支えられる距離を保っている。
そのことが、まるで自分の知らないところで何度も繰り返されてきたことのように思えてしまう。

廊下の先の窓辺まで来ると、キルアが足を止めた。
外には淡い空が広がっていて、庭の木々が風に揺れている。

「少し休む?」

少女は頷いて、窓際の壁にそっと寄りかかった。
息が上がるほどではなかったけれど、緊張していたぶん、思ったより疲れていたらしい。

キルアは少し離れた場所に立ったまま、外を見る。
近くに来すぎない。
けれど、離れもしない。

少女は自分の手を見つめた。
さっき袖を掴んだ指先に、まだ布の感触が残っている気がした。

どうしてこの人だったのだろう。
どうして、あんなに自然に手が伸びたのだろう。

記憶はない。
この人との時間も、まだちゃんとは思い出せない。
なのに身体だけが、先に知っている。

怖いとき、ふらついたとき、咄嗟に頼る先を。
触れてもいい相手を。
振り払われない場所を。

少女はそのことに、ひどく戸惑いながらも、どこかでほっとしている自分に気づいた。
空っぽではないのかもしれない、と、ほんの少しだけ思う。

全部なくなったわけではない。
少なくとも身体のどこかには、まだ残っているものがある。

「戻るか」

キルアの声に、少女は顔を上げた。
彼はもう歩き出すでもなく、ただこちらの返事を待っている。

「……うん」

答えると、彼は先に立たず、今度は少女の隣に並んだ。
歩幅はやはりゆっくりで、少女が無理なくついていける速さだった。

帰り道、少女はもう袖を掴まなかった。
けれど、もしまた足をもつれさせたら、たぶん同じように手が伸びるのだろうと、どこかで分かっていた。

その予感は、恥ずかしいのに、少しだけあたたかかった。






←|→

戻る


top