11
「……もう二度と、あんなとこに戻させねーよ」
声は小さかった。
けれど、その一言には刃みたいな強さがあった。
誰に向けた宣言でもない。
彼女を傷つけた過去へ。
彼女を泣かせた世界へ。
そして何より、自分自身へ向けた誓いだった。
「だからさ」
キルアは伏せたままの睫毛の奥で、ほんの少しだけ目を細める。
自分の前でこぼれたあの笑顔が脳裏に浮かぶ。
チョコを食べて、少しだけ頬を緩めて、壊れものみたいに儚く笑った顔。
あんなふうに笑えるなら、まだきっと大丈夫だと思えた。
どれだけ傷ついても、全部が壊れてしまったわけじゃないのだと。
だからこそ、失わせたくなかった。
「さっさと起きて、また……笑えよ」
最後の言葉だけ、少し掠れた。
それは命令みたいでいて、願いだった。
ぶっきらぼうで、でもどうしようもなく切実な。
すると、その誓いに呼応するみたいに。
ナマエの苦悶に満ちていた表情が、ふっとやわらいだ。
強張っていた眉間の皺がほどけ、浅く乱れていた呼吸が、少しずつ穏やかな寝息へ変わっていく。
まるで、暗い水の底でもがいていた身体が、ようやく水面へ浮かび上がってきたみたいに。
それを見た瞬間、キルアの胸の奥で張りつめていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……よかった」
ほとんど息みたいな声で呟いて、キルアは彼女の手を握ったまま目を伏せる。
その小さな手はまだ冷たかったけれど、さっきよりはほんの少しだけ力が抜けていた。
眠ったままでも、ナマエの指先がかすかにキルアの手を握り返した気がして、胸の奥が小さく揺れる。
それが無意識の反応だと分かっていても。
ただ体温を求めただけだと分かっていても。
それでも、自分の手の中で彼女が安らいでいくことが、どうしようもなく愛おしかった。
こんなふうに誰かの眠りを見守ることなんて、今までなかった。
守るというより、監視することのほうがずっと多かった。
息を潜めて近づくのも、触れるのも、奪うためのほうが自然だった。
なのに今は、その手を離さないことだけを考えている。
起こさないように、怯えさせないように、ただ穏やかなままでいてほしいと願っている。
そんな自分が少しだけ不思議で、けれど嫌ではなかった。
夜はまだ深かった。
窓の外では月が静かに傾き、白い光が少しずつ薄れていく。
やがて世界がゆっくりと白みはじめても、キルアはその場を動かなかった。
ナマエの手を握ったまま、ずっとベッドの脇に座っていた。
まるでそのぬくもりを離した瞬間、また悪夢が戻ってきてしまうとでも思うみたいに。
あるいは、自分の手の中にあるこの小さな安らぎを、まだ手放したくなかったみたいに。
夜明けの淡い光が部屋を満たしていく。
その中で眠るナマエの横顔は、ようやく穏やかになった。
キルアはそれを見つめながら、何も言わず、ただ静かに指先へ力を込める。
そのぬくもりは、たしかに救いだった。
けれど同時に、彼の胸の奥で静かに根を張りはじめた何かを、誰にも気づかれないまま育ててもいた。
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