69
その夜、少女は昨日より少しだけ早く布団に入った。
昼間に廊下を歩いただけなのに、思った以上に身体は疲れていたらしい。
足のだるさはわずかだったが、神経のほうが細く張りつめていたのだと分かる。
目を閉じればすぐ眠れそうな気もした。
けれど、夜の静けさが深まるにつれて、やはり胸の奥は少しずつ落ち着かなくなっていく。
暗い部屋、窓の外を渡る風の音、遠くで木が鳴る気配。
何かが起きるわけではない。
ただ、自分の中の空白だけが、夜になると少し大きく見える。
少女はシーツを胸元まで引き上げた。
眠りたい。けれど、ひとりで目を閉じるには、まだ少し心細い。
昨夜のことを思い出す。
扉の向こうに足音があって、声が返ってきて、それだけで呼吸が楽になった。
思い出したわけではないのに、身体だけが先に安心していた。
あれは偶然だったのだろうか。
それとも、本当に自分の中に残っているものなのだろうか。
考えているうちに、廊下の向こうで小さな物音がした。少女ははっとして顔を上げる。
足音だった。
昨日と同じ、静かな歩き方。
急がず、重すぎず、床を鳴らしすぎない足取り。
耳がそれを拾った瞬間、胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけほどける。
少女は自分でも気づかないうちに、息を止めてその音を追っていた。
足音は扉の前で止まり、しばらくして控えめに二度、扉が叩かれた。
「起きてる?」
低い声が、木の板越しに届く。
少女は少しだけ迷ってから、「……うん」と返した。
すると扉の向こうで気配が動く。
けれど、すぐには開かない。
「茶、置いとく」
それだけ言って、何かを床に置く小さな音がした。
たぶん、温かい飲み物だろう。
昨夜より少しだけ遅い時間だから、眠りを邪魔しないものを選んだのかもしれない。
そんなことまで考えてしまう自分に、少女は少し驚く。
「ありがとう」
返すと、向こうで短く「ん」と声がした。
それきり会話は途切れた。
けれど、足音は遠ざからない。
少女はベッドの上で身を起こし、扉のほうを見た。
開ければ、たぶんそこにいる。
向こう側に、彼がいる。
中に入ってこない。
無理にそばにいようとしない。
ただ、ここにいると分かる距離にいてくれる。
そのことが、ひどくやさしかった。
もし扉を開けて、すぐ隣に座られたら。
もし眠るまで見ていると言われたら。
たぶん少女は、安心するより先に身構えてしまっただろう。
今の自分には、近すぎるぬくもりはまだ少しこわい。
けれど、遠すぎる孤独もつらい。
そのあいだの、ちょうどいい場所に、彼は黙って立っていてくれる。
少女はそっとベッドを降りた。
扉の前まで行き、しゃがみこんで、床に置かれたカップを手に取る。
まだ温かい。
湯気はもう薄いが、やさしい香りがした。
扉は開けない。
開けなくても、向こうにいると分かるから。
カップを両手で包みながら、少女は扉に背を預けるようにして座り込んだ。
木の板一枚向こうに、彼の気配がある。
「……キルア」
小さく呼ぶと、すぐに返事があった。
「ん」
「そこに、いるんだね」
昨日と似たような確認だった。
自分でもおかしいと思う。
けれど、確かめずにはいられなかった。
向こうで少しだけ間があって、それから低い声が落ちる。
「いる」
短い。
けれど、その短さがかえって嘘のなさみたいで、少女は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
カップの熱が手のひらに移る。
扉越しの気配が、背中に伝わる気がする。
少女は目を伏せた。
どうしてこんなに落ち着くのだろう。
記憶はない。
何を積み重ねてきたのかも分からない。
なのに、この人が近くにいると知るだけで、ひとりでいるときよりずっと息がしやすい。
身体が覚えているのだ。
何度も、眠れない夜に、扉の向こうの気配に助けられてきたのかもしれない。
足音や、声や、そこにいるという事実だけで、少しずつ眠りへ落ちていけた夜があったのかもしれない。
思い出せない。
けれど、そうとしか思えないほど、身体は素直に安心していた。
「……入ってこないの?」
ぽつりと零すと、向こうで気配がわずかに動いた。
「入ったほうがいいなら入る」
すぐにそう返ってくる。
決めるのは自分だと言われている気がして、少女は少しだけ目を瞬いた。
「……今は、ここでいいかなって」
言いながら、自分でもその言葉にほっとした。
ここでいい。
扉一枚隔てたこの距離で、十分だった。
キルアは「そっか」とだけ返した。
それ以上は何も言わない。
少女はカップをひとくち飲んだ。
やさしい温度が喉を通っていく。
胸の奥まで、少しずつほどけていくようだった。
扉の向こうに彼がいる。
それだけで、今夜は眠れそうだと思う。
少女はそのことに、ようやく名前をつけられそうな気がした。
安心、なのだろう。
思い出したわけではない。
好きだとか、大事だとか、そういう感情の輪郭はまだ曖昧なままだ。
それでも、この人がいると眠れる。
それはもう、十分すぎるほど確かなことだった。
少女はカップを床に置き、ゆっくり立ち上がった。
ベッドに戻って横になる。
さっきまでの暗さが、もうそれほど冷たく感じない。
「おやすみ」
小さく言うと、扉の向こうで少しだけ間があった。
それから、低い声が返る。
「……おやすみ」
その声を最後に、少女は目を閉じた。
足音はまだ遠ざからない。
たぶん、眠るまではそこにいるつもりなのだろう。
そのことを確かめるように、少女はシーツを引き寄せた。
胸の奥に残っていた不安は、もう昨夜ほど大きくない。
この人がいると眠れる。
その事実だけが、暗闇の中で静かに灯っていた。
理由はまだ分からない。
けれど、分からないままでも、身体はちゃんと帰る場所を覚えているのかもしれなかった。
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