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「外、行ってみたいな」

ポツリと少女が呟く。
記憶が曖昧なままでも、外の光に触れれば何か変わるかもしれない――そんな期待があったわけではない。
ただ、閉じた場所にいると、自分の中の空白ばかりが大きく見えてしまうのだ。

「外?」

キルアが少し顔をしかめる。
心配してくれているのだろうか。
彼の反応に、あまり良くなかったのかもしれない、と少女は視線を床に落とす。
しかしそんな少女を見て、キルアは一つ息をつき、「行くか」と席を立つから、あわててその背中を追いかけた。

外は思ったより明るかった。
風はやわらかく、陽射しも強すぎない。
道の脇には木々が揺れていて、遠くから人の話し声や、荷車の軋む音がかすかに届く。

少女はその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
少しだけ、気持ちが軽くなる。

隣にはキルアがいた。
ぴたりと寄り添うわけではない。
けれど、何かあればすぐ手が届く距離を保っていて、それは屋内を歩くときと同じだった。

最初のうちは、ただ歩くだけでよかった。
足元に気をつけて、呼吸を乱さないようにして、ゆっくり進む。
風が頬を撫でるたび、少しだけ身体の強張りがほどけていく気がした。

けれど、人の気配が増えてくると、少女の足取りは自然と慎重になった。

通りに近づくにつれて、行き交う人の数が増える。
ぶつかるほどではない。
混雑というほどでもない。
それでも、誰かが横を通るたび、肩がわずかに強張る。

自分でも理由は分からない。
ただ、知らない人の気配が近いと、身体が先に身構えてしまう。

少女は無意識に歩幅を狭めた。
すると、キルアが何も言わないまま、少しだけ位置を変える。
人通りの多い側に自分が立つようにして、少女を道の内側へ寄せた。

あまりにも自然な動きだった。
庇われた、と意識するより先に、少女の身体は少しだけ楽になる。

けれど、その楽さが、すぐに別の痛みに変わった。

守られている。
助けられている。
それはありがたいことのはずなのに、同時に、自分ひとりではうまく歩けないみたいで、胸の奥がじくりと痛んだ。

少し先に、緩やかな石段があった。
高い段差ではない。数段上がれば、小さな広場に出るだけだ。

少女は立ち止まって、それを見上げた。
これくらいなら大丈夫だと思った。
ほんの数段だ。手を借りるほどでもない。
そう思いたかったのかもしれない。

一段目に足をかける。
二段目。そこで、わずかに重心がぶれた。

踏み外したわけではない。
けれど、足が思ったより上がっていなかったのか、つま先が石の縁を擦る。
身体が前に傾き、視界が一瞬だけ揺れた。

次の瞬間には、腕を取られていた。

「危な」

低い声と同時に、身体が引き戻される。
キルアの手は強くはなかったが、迷いがなかった。
少女が転ぶ前に、当たり前みたいに支えてしまう手つきだった。

少女は息を呑んだまま、数秒遅れて体勢を立て直した。
腕を掴まれていた感触が、じわりと残る。

「……ごめん」

反射みたいに謝ると、キルアはすぐに手を離した。

「謝るほどじゃねーし」

そう言いながらも、彼の視線は少女の足元を一度確かめている。
怪我がないか見ているのだと分かる。

少女はそれがたまらなく恥ずかしかった。
たった数段の石段でつまずくなんて、子どもみたいだと思った。
いや、子どもでももっとましに上がれるかもしれない。

「平気?」

訊かれて、少女は慌てて頷く。

「う、うん……平気」

本当は、足より胸のほうが痛かった。
できると思ったことが、できなかった。
それだけのことなのに、自分の中の何かが少しずつ削れていく気がする。

キルアはそれ以上何も言わず、先に石段を上がった。
それから振り返り、今度は手ではなく、少しだけ身体の向きを変えて待つ。
必要なら支えられる位置にいるのに、無理に差し出してはこない。

少女は唇を噛んだ。
その気遣いがやさしくて、苦しい。

自分で上がれると思った。
でも実際には、支えられた。
そのうえ今は、気を遣われている。

少女は慎重に残りの段を上がった。
今度は躓かなかった。
けれど、うまくできたという気持ちにはなれない。
さっきの失敗が、まだ身体の中に残っていた。

広場に出ると、風が少し強く吹いた。
木陰の下に置かれたベンチや、遠くで遊ぶ子どもの声が見える。
穏やかな景色だった。

キルアは近くの売店で水を買ってきた。
戻ってくると、一本を少女に差し出す。

「飲む?」

その言い方も、やはり押しつけがましくない。
飲め、ではなく、飲むか、と選ばせる声だった。

少女は受け取って、小さく礼を言った。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ落ち着く。
けれど、胸の奥の惨めさは消えない。

ベンチに座ると、足の疲れより先に、気持ちのほうが沈んでいくのが分かった。
たったこれだけの外出で、つまずいて、庇われて、気をつかわれている。

以前の自分はどうだったのだろう。
もっとちゃんと歩けたのだろうか。
もっと、誰かの手を借りなくても平気だったのだろうか。

記憶はない。
でも、今の自分が“足りない”という感覚だけは、妙にはっきりしていた。

キルアは隣に座らず、少し離れた場所に立っていた。
少女がひとりで息を整えられるようにしているのかもしれない。
その距離がありがたいはずなのに、今はそれすら、自分が気をつかわれている証拠みたいに思えてしまう。

「もう少し休んだら戻るか」

低い声が落ちる。

少女はすぐに「うん」と答えた。
本当は、もう少し外にいたい気持ちもあった。
せっかく出てきたのだから、もう少しちゃんとしていたかった。
けれど、これ以上何か失敗するのがこわかった。

水の入った瓶を両手で握る。
冷たさが手のひらに移る。

少しの段差。
少しの人混み。
少しの判断の遅れ。

そんな小さなことで、自分は簡単に立ち止まってしまう。
以前なら違ったのではないか、という感覚だけが、根拠もないまま胸に残る。

その“違ったはず”が、少女をいっそう苦しめた。
比べる相手は思い出せない。
思い出せないのに、今の自分だけが明らかに頼りなく見える。

キルアが悪いわけではない。
むしろ、彼はずっと自然に支えてくれていて、だからこそ余計につらい。

ありがたい。
でも、惨めだ。

その二つが胸の中でうまく分かれず、少女はただ黙って俯いた。
風がまた木々を揺らし、広場の影がゆっくりと動く。

外の光は明るいのに、少女の中では、何かが少しずつ暗くなりはじめていた。






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